電子版 秦恒平・湖(うみ)の本 創作3『秘(ひそく)色・三輪山』
 

 
 

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        秘色(ひそく)         「展望」昭和四十五年三月号
 
 
 
 

     一

 この四月五日、急にO大医学部の平沼教授より、丹精の著書も無事出版されたのでいささか祝盃を挙げたいが、来ないかというお誘いを受けた。版元としては恐縮の体で、むろん社命で急ぎ招きの席へ出向いたのだが、その新幹線で、私は四十にすこし前かという和服の婦人と隣り合わせた。
  婦人は京都で下り、大津へ戻って滋賀里(しがのさと)まで帰るという。乗りものの中ではいつも黙って過こすので、この時も自分からとかく話しかける事は控えていたし、相手も幸いといわゆるお喋りでなく、大津へ戻って、も挨拶代りのつつましい感じで言われたに過ぎなかった。
 そのまま、私は例の半醒半酔といった心地で腕組みをしていた。が、何となく、となりの人の帰って行く先が、大津といい、殊にも滋賀里といい、麗々(うらうら)と、だがどこか物憂く山なみにけぶりあった湖と重なり、穏やかな、優しい心地を誘うのだった。
 京都有ちの私は奈良もさほどでなく、大阪はまして物とも思わないが、東京暮しに馴れてからも琵琶湖は流石に幼なじみでなつかしい。
 もっとも今の新幹線は、南湖の端というより、もはや瀬田川の上を駆け抜けるだけで、車窓に見うるのは琵琶の鹿茸(ろくじょう)の、まだその外れの、極く限られた湖面に過ぎない。
 この南湖の中ほどにある浜大津から、小さな汽船がたっぷり一時間半以上も北へ向かい、漸(ようよ)う堅田港の向うに巨大な琵琶湖大橋の橋桁を見上げる事ができ、橋の下を潜ったすぐ左が真野(まの)という水泳場になっている。琵琶の本体に相当する大湖はといえば、この真野の先北へ北へ南湖のおよそ十五、六倍もの広さで丹後、若狭に接しているので、大昔はこれを「遠つ淡海(あふみ)」と呼んで、琵琶の柄に当たる「近つ淡海」と区別していたらしい。
 しかし、平安遷都の百三十年以前、天智天皇の六年(六六七)春、にわかに飛鳥を去って近江に都を遷し、やがて七年の空位をやめ、はじめてこの地で中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が即位の礼をあげ得たという事には、広大な湖辺の実景を求めたとか、水産の豊富に魅せられたのではなかったばかりか、大化のクーデター以来のやみがたい不安動揺が底籠もっていたらしく、しかもこのいわゆる大津京も同じ天智の十年(六七一)十二月、急に天皇の死に遭うと忽ち壬申(じんしん)の乱を迎え、わずか五年の短命の廃都と化している。
 まして千三百年もの歳月を経てみれば、大津京とか志賀の都といっても、湖岸の何処に、どんな建物を具えて設営されていたのか、正確な位置も規模も実はそうはっきりしていない。何でも浜大津から湖の西岸に沿って北へ、京阪電車で終点坂本まで行く途中の、要するに今隣り合わせている人が住むらしい滋賀里や南滋賀辺がその大津京趾かと推定されているが、京域(けいいき)の四至が確認できた訳でなく、大極殿(たいごくでん)の跡さえ不明なのだから、わずか五年余で滅びた宮都が復元できるものか頭からむりと思う人も多いのである。
「いえもう、どんどんと家が建てこんで参りましてね」
「それじゃ大津廃京などと言っても」
「はい、さほどの関心もなくて。近江神宮で御婚礼を挙げる若い方も、どなたを祠ったお宮と、知らずになさる方があるそうでございますから」
「そんなものでしょうかね。――あの梵釈寺跡ってのは、あれで近江神宮からはどの辺だったでしょう」
「北の方へ三、四丁、いえもうちょっとございましょうか、たしか南滋賀町廃寺趾と書いてあったかと存じます。昔は竹薮が多うございましてね。こどもの頃でたしかにも覚えませんが、掘り返しておいでだった時分からみますと、あの台地の上にも、周りにも、嘘のように家が建っております」
「はあ。それじゃまだあそこが確かな梵釈寺の跡かどうか確認できていないのですね」
「多分、あの辺の人も梵釈寺というような呼び方はしていないかと存じますよ。ちょうどあそこには正興寺というお寺もありまして、何となく昔の都にゆかりの跡かぐらいで。県の方でも梵釈寺趾とはっきり言い切っていないようでございます」
「あそこがそうなら、これはまちがいなくあの一帯が大津京趾という訳なんでしょうが。天智天皇の霊をなぐさめるため殊さら旧都の真中に建てたといいますから」
「はい。それにしてもほんとうにもうすっかりそんなふうの面影もないようで、思えば、呆気ないくらいでございます」
「そう言えば、志賀峠の方の崇福寺(すうふくじ)の跡など、この頃ではどうなっているのでしょう」
「崇福寺――」と息を切ってその人は顔を見せながら「お精(くわ)しくっていらっしゃいますね」
 どの辺からであったか、多分もう富士山も見て過ぎた頃から、何となく声をかけてしまっていた。その人も、世ばなれた話題を厭うふうはなかった。
 梵釈寺といい崇福寺といい、京都にいた頃、むろんまだ結婚前の妻と、何げなしに大学での勉強を失敬してむりな山中(やまなか)越えに東山をのり越えてみたある日、思い寄らずそんな廃寺の跡へ迷い出て以来の久しい因縁なのだ。もっとも当時から「日本後紀」に弘仁六年(八一五)の四月、「嵯峨天皇韓崎(からさき)ニ幸シ途ニ崇福寺ヲ過ギ給フ、梵釈寺別当永忠、護命等之ヲ門前ニ迎フ」という記事は頭にあった。卒業論文に須恵器をとりあげる積りの私としては、嵯峨天皇らが梵釈寺で詩会を催し、大僧都の永忠が手ずから茶を煎じて進めたその際、さしあたりどんな茶碗を使ったか、くらいな関心は持っていたのである。
 崇福寺に就いても、梵釈寺に就いても当時まだその上の事は大して知らなかった。それより何より甘い恋に浸っていた我々は、何でもいい何処でもいい、山があれば山を上る、崖があれば崖を下りるという具合に、二人でならどうにでもどんどんやってみる時だったので、春先の、比叡おろしがまだ冷たい、かんかん晴れ上がった日、私は手ぶらで、妻の方は辞書やクセジュか何ぞと兼帯の、いかにも構わない学生らしいレザーバッグひとつ肩にかけた恰好で、いきなり白川添いに身代不動院の辺から山の中へ踏み入ったのだった一一。
 名古屋を発つと隣の人は会釈して席を立ち、前をすり抜けて車室を出て行った。私はぬくもりの残ったらしい座席を見やりまた網棚の上を見あげた。どういう旅をしてきた人かよく分からない。小型の、ベージュに藍でふちをとったスーツケースが一つと、四角く結んだ風呂敷包みがもう一つ、それだけで、ワイシャツ一枚を着がえの私の荷物と並べて、棚には余裕があった。
 それにしても、琵琶湖や大津の事を話しかけたのは、折から春日遅々の、ただ和やかな気分からであっただろうか。波と光と、靉靆(あいたい)たる湖上の微風とが心のうちをよぎっていたのだろうか。

   近江の海 夕浪千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしぬに いにしへ思ほゆ

 こんな歌も口に想い浮かべてみながら、私は別な事を考えていた。
 

     二

堅田の当来寺を訪ねたのは二月末の或る夕暮れであった。所詮は宿をとる気で腹を決めてしまうと、
折から琵琶湖を染めた夕日が刻々と薄墨色に溶き流され、沖へ沖へ夕やみの拡がる景色にも眼が離せな
かった。雁こそ渡らないが、伊吹山、三上山、沖の島が波の涯てに影をならべ、顧みに比良の峯が大き
さを増して、はだら雪がまぷしかった。
教えられた道を辿って、山手の、水の音もする小路を登りながら、私は、当来寺が本当にあるらしい
事がふしぎでならなかった。
堅田は対岸の長浜とならんで、鴨の料理で名高い。むろんそれも旅の内のちいさな眼目であったが、
用事は、というと事々しいけれど、堅田に旧家で居初という家がある。織田信長以来のれっきとした由
緒をもち、その庭園は、「書院式の露地をはじめ、安土桃山期の形式をとどめるものとして、個人の庭
には珍らしい貴重なもの」(原田伴彦「近江路」)というのに惹かれて、来たのである。
押し強く話を聴いた居初家の主人は、失礼だが、入道雲に眼鼻を描いたような人だった。期待以上に

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書院も庭もみごとだったが、結局は印象に残った第一が居初さんの磊落な人柄で、第二は、雪の消えな
い奥の池で見た白はだらの巨きな鯉だった。鯉は、赤い実の千両の株の下で微動(みゆる)ぎもしなかった。主人
は「時候が悪かったで」と寒いばかりの堅田を残念がり、今日のうちに帰るのか、泊って行くのかと念
を押しながら、華奢な湯呑で玉露を三杯も喫むような人だった。
当来寺の事を訊ねてみた。これまで堅田の当来寺を知っている人は一人もなかったし、当座の話題に
何気なく訊ねたくらいで、「いやありますが。もうよほど荒れとるが」と道まで教えられた時は却って
半信半疑だった。
「南無当来導師」といえば弥勒菩薩である。当来寺はものの本では石仏を以て寺内を埋めたはずだが、
果してその棄て弥勒の名残でも見られるだろうか。私は、寺も見たいが早く宿にも入りたいと思いなが
ら、堅田の町を出はずれた辺りをとことこ歩いていた。
居初さんからの挨拶が利いたのか、宿では十二畳の気もちのいい部屋が用意してあった。茶をいれて
女中が退ると、私は思わず大の字になって、ふうふう息を吐いた。急に、遥々来た思いがした。京都の
親の家に残してきた妻や娘たちが、今頃は、遅い遅いと言い合うさまも眼に浮かぶと、一体何に惹かれ
てここまで来たかと思う一一。
庭へ下りて崖のふちまで行くと、眼の下に当来寺の本堂が見下ろせた。宝形(ほうぎょう)造の瓦葺きが真黒く残り
日に鈍んでいて、それがおよそ三百坪もの山ふところに呑まれた荒れ寺の唯一の遺骸かと見えた。表の
道からつづくらしい甃(しきいし)のあともこぼたれがちに、境内は殺風景だ。堂の前の唐銅(からかね)の燈籠は左側の一基が
影もなく、もとは門と思う辺りに雄偉な松が一株(いつしゆ)みごとに聳えていた。

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今聴いたばかりの崖づたいに当来寺の裏側へまわると、宿の庭からは見えなかったが、境内がぐるり
と山のかげへ伸びていた。こわごわ見下ろすと、崖肌を埋め、平地を埋めて、夥しい無縁塚が夕明りの
庭へ今しも真暗(まツくら)に沈みこもうとしていた。むろん無縁塚でなく、一つ一つが風雪に磨かれた、ぬるりと
まるい大小の弥勒仏である事も、下りてみて私は確かめた。
鼻が欠け眼が欠け、また耳も千切れ口も割れた石仏たちが、文字通り蝟集(いしゅう)している。あたかも邪魔な
ものを一隅に押しかためた恰好だ。その棄て弥勒たちももう夕やみに蔽われ、一体ごとの相貌を見極め
る事はできなかったが、思いなしか無残な、仏の地獄とくらいの奇妙な感想を強いた。
当来寺の住持がこの幻花(げんげ)庵を経営する主人である事は、女中の話で、鴨すきをつついている最中に聴
いた。あずき色の鴨の肉を芹と一緒に口ヘ連びながら、鴨をとるには長い藤づるにトリモチをつけ、水
辺に浮かべて翅から絡めとる、という女中のはなしも世ぱなれて聴かれた。主人は堅田町の小学校で先
生もしているというが、酒も手伝って、私は幾分皮肉な笑い方でそれも面白く聴いた。
堅田鮒の包み焼というのは食べさせないのかと、私は訊いた。女中は顔を見て、「さあそれは知りま
せんがな」と返事した。
鴨のあとも、酒のさかなに咲さんというその五十ちかい女中はわざわざ大樹の山椒焼と、海老芋をう
ずらのすり身と合わせた小鉢を運んでくれ、今おじゅっさんが御挨拶にと言って退った。おじゅっさん
とはお住持さんの事だろうが、呪師にも聴こえ、律気な人と咲さんは評判していたけれど、変に落ちっ
かなかった。
坊主とばかり思っていたが、やがて閾居ぎわに手をついたのは、尼さんだった。意表に出て、挨拶に

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困った私は「なるほど」というくらいの頓珍漢で応えながら、鍋と酒で火照った頬でも撫でるしかなか
った。
暫くして尼さんは出て行った。
当来寺を見つけた事が私にはまだふしぎに思えていたのに、尼さんの話では当時の開山は道行(どうぎょう)尊者だ
と聴いてみると(道行というのは「日本書紀」の天智紀に顔を出す、新羅(しらぎ)の僧なのである)、いかにも
そうであったのかと合点はいったが、一方、思わず背の方を振り返ってみるほど気味もわるい話だった。
居初の庭どころでなく、もっと大昔の事を私は蜘蛛が糸を吐くように考えはじめた。
さっきも咲さんに言いかけた事だが、鎌倉時代の「新撰六帖」という本を見ると、藤原家良の作で、

いにしへはいともかしこし堅田鮒つつみ焼なる中のたまづさ

とあるのは、前後の歌と比べて一段と不出来なばかりか、今では誰も十分味読するを得ないのではなか
ろうか。しかし、この歌の意味を解説する体(てい)の口碑(くひ)は古来語りつがれていたらしく、「宇治拾遺物語」
にやや詳しく採録されている。話そのものはいささか荒誕(こうたん)に類するけれど、似たような事情が「扶桑略
記」「水鏡」や、また慈円の「愚管抄」にも挙げてあり、概ね信じていい事かと想われるのである。
かいつまんで言うと、昔、十市皇女(とおちのひめみこ)という高貴の女人がいた。父は大海人皇子
(おおしあまのみこ)のちの天武天皇、母が額田姫王(ぬかたのおおきみ)で、夫は、大海人と帝位を
争って敗れた大友皇子(おおとものみこ)である。この大友皇子の父が大化改新の主人公、中大兄皇子

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(なかのおおえのみこ)即ち天智天皇で、大海人皇子には同母の実兄に当たるのだが、兄は、弟の愛人で
すでに十市皇女の母となっていた額田姫王を、強いて自分の後宮に入れている。
その間の事は万葉集に有名な天智天皇の「香具山は、畝火を愛(を)しと、耳梨と、相諍ひき」というおそ
らく額田姫王をめぐっての妻争いの三山歌や、またその後に、「野寺は見ずや君が袖振る」と唱い、「紫
草(むらさき)のにほへる妹をにくくあらぱ」と和した額田姫王と大海人皇子の相聞歌などからも察せられ、これに
今一人天智天皇の娘、天武(大海人)の妃である■野皇女(うののひめみこ)のちの持統女帝を加えれ
ば、歴史上に聞こえた壬申の乱の主要人物が一通り出揃う事になる。
この一見複雑な絡み合いの中で、近江大津京を興し、古代王権の確立に英知を傾けてきた天智天皇に
死期が迫ると、避けがたい勢いで、皇太弟の大海人と太政大臣の大友皇子の仲が瞼しいものになった。
危険を悟って大海人は、天皇存生の内に、吉野の里に身をのがれたが、「虎に翼をつけて野に放てるな
り」とする者もあり、天皇崩御のあと、近江朝廷にはしばしば吉野をうかがう不穏の措置が見られたの
である。
この時、遥か大津の宮より危急を告げ、しかも父の決起を促して秘かに書を寄せていたのが大友の王
妃十市皇女といわれ、「父の殺され給はんことをかなしみて」「鮒のつつみやきのありける腹に、ちひさ
くふみをかきて、おしいれて奉り給へり」とあるのが即ちさきの「いにしへはいともかしこし」の歌と
なっている一一。
近江八景の名で名高い落雁でも比良春雪でもなしに、堅田といえば当来寺とこの歌の事が頭に浮かぶ。
寒い寒い湖岸の古い町かという想像もはずれていなかった。

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それにしてもこの堅田の名をなつかしく私に覚えこませた寒かったあの師走の午さがりに、父と母は
一体何を話合っていたのだろう一。
よく覚えているが中学二年生のやがて冬休みという頃、多分その人の事に違いない父と母の会話を、
私は、例より早く学校を退けて、障子越しに偶然聴いた。気配で察して、だが耳に残ったのはただ一言
の「堅田」という、寒く澄んだ土地の名前だけだった。
私は自分を産んでくれたその母を知らない。産ませた男を知らない。その以前から、私の頭にはいつ
となく、父とは言わせぬ男のうしろを、重い足をひいてついて行く母のイメエジが、できていた。みな
が隠していたけれど、神経質な子どもの眼や耳がそうは塞ぎ切れない事を人のいい今の父も母も気づか
なかったらしい。
「堅田」の一言は結局何事も教えてはくれなかったが、降り出した雪を部屋の窓を押しあけひとり眺め
たあの日の記憶と一緒に、その一言は久しく私の"非現実"を開くちいさな光る鍵となっていた一。

さっきから汽車は徐行していた。関ヶ原を抜けて行くらしく、やがてあずき色の着物がドアの所に見
えた。
目も合って、何となく微笑みがちに元の席へおさまってしまうと暫く無言だったのが、米原ちかくな
り、この町に朝妻という昔栄えた港も今ではどうかという話が出た。それからまたもとの大津京の話題

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へ戻って行って、思い寄らぬ事を私は聴いた。
志賀峠にちかい長尾の崇福寺といえば、天智天皇がその完成を見て漸く即位したかとまでいわれる近
江大津京の鎮護寺だったが、その婦人の話に、今から三十年くらい前、滋賀県と京都大学が協力してこ
の廃寺跡を発掘した際、塔心礎の舎利孔から他の出土品と一緒に、ヒビ一つない無きずの越州青磁が見
つかったとか、しかも何かの事情で一夜のうちにそれが紛失したとか、熱心な物数寄の話を一度となく
耳にしたのだけれど果してどんなものだろうか、と。  
「舎利容器が見つかった話は聴いていますが、なるほどね。舎利容器が在ったからにはそれも無いとい
けない、というのでしようね」
その人は、よく分からないという顔をした。むろんモノによるが、寺の建ったのが古く、白鳳以前で
無きずの青磁宝器など舶載品にしてもこれまで見た事はない、事実とすれば確かに大騒ぎしていい話に
違いなかった。しかも、まったく荒唐無稽とはいい切れない、正史にこそ見えないけれどわきの資料に
はちょいちょい顔を出す話であって、私もそんな記事に注意はしていたのである。今、紛失などと事件
めかしく言われると、多分そういう知恵のついた誰かの興がったいたずらが想像され、それも面白いな
と思いつきながら、私は見覚え聴き覚えとりまぜて婦人に話しはじめた。
「で、その青磁というのは、品物は何でございますか、お茶碗一一」
それは、と種あかしを楽しむ口調で一息入れた時、窓のむこうに、ちようど薄墨で描いたような比叡
山が見えてきた。やがて瀬田川かと思うと、話してきた大津京や崇福寺の事が、旅の想いを、急にゆた
ゆたと水明りほども漂わせる。はっとして、それが一瞬の放心からでな<、車内放送が自分の名を呼ん

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ているからだと気づいた時、隣りの婦人は私の顔を見ていた。
電話は編集長だった。出がけにもう一度連絡をとってこなかった事で、苦情を言われた。お土産には
何をとも訊かれた。大阪へ着いてから、みっともなくない程度の物を阪神か阪急かで探しますと返事し
て、安直だとまた叱られた。叱りながらあれこれ知恵もつけてくれた。いまどこと訊かれ、山科ですと
答えたら慌てたように電話は切れた。
「いない」と思わず呟いた。座席の背凭れに椅麗な風呂敷が押しつけ気味に畳まれていて、変な話だが、
いっとき婦人が尻の方へ何かで押しやったまま席を立ったかと、私は想像した。
一人になって、さて大阪までは暫く間があった。汽車は東山トンネルを出ていた。加茂川にかかり、
ろうそく台のような京都タワーがぐんぐん大きくなる。どうしたのかなあの人、といらいらしているう
ち人も立ちはじめた。もうドアの所まで出ていて、風呂敷は忘れ物かと、そう言えば網棚のスーツケー
スはなかった。
風呂敷を掴んだ。まず前を覗いてから後の出ロヘまわったが見当たらない。慌てて席へ戻ったが、い
ない。
ベルが鳴っていた。私は風呂敷を窓に押し当てる恰好で、ゆるゆる後退(あとじさ)って行くプラットホームのど
こかにその人を見ようとした。
にぎやかな家族づれを見た。それから確かに、ホームを半分も移動した辺りにあずき色の着物の、丈
高な後ろ姿が誰かと立ち話していた。かげになって、相手は白いワンピースの若い人らしく、額や、髪
のふさふさした形が見えた。

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風呂敷を眼の高さにして、無益にも私はガラスをこつこつ指で鳴らした。すると年嵩の人がふと私の
方へ会釈した、かと見え、そればかりか相手の娘もこっちを見て、微笑った。髪が動いた。娘の顔を見
たとたん、おっと声に出て、訳もなく私は身を退いてしまった。なぜだか自分でも分からず、そのくせ
急に頭の中で何かが動きはじめた一一。
手にとる前から風呂敷は重々しい手触りを想像させていた。あらしぼの、色とりどりに花小紋を重ね、
さざ波立つ浮き波にふと夢を惹かれそうな、ちりちりした感触。ふうんと口の中で声にしながらも、か
すかに紅を含んだあずき小紋に銹び朱のつむぎの帯、コートや羽織さえ着ていなかった今のプラットホ
ームの立ち姿を、私は想ってみた。べつに風呂敷一枚がどうというのでなく、もう一度顔を見たいと考
えていたさっきを想い出すと苦笑いになった。
間もなく、風呂敷の一隅に、白地に染め抜いた小さな「王」の文字を私は見つけた。姓としか見えな
い王の一字は、あの婦人が中国の人であったかも知れぬ事を私に教えた。
ああそうか一一。突然、妻がよそ行きの財布に蔵っている一枚の銀片に私は想い当たった。おはじき
に似た、文字も文様もない、指さきでひねってまるく叩いたような金属だ。真中に糸通しほどの穴があ
き、どう擦(こす)っても剥がれない何かのとがった破片が小さく貼りついている。妻はおよそ不細工なこんな
物をお守りと言って蔵いこみ、燻った黝いだけの鉱物を長い間かけて銀色に磨きあげていた。だが、く
っついた破片は元のまま、妙に呪術めいてびくとも動かない一一。あの銀貨をくれた、あの子。さっき
の京都駅の娘は、あの子か一一。
一一それは崇福寺趾へ紛れ入ったあの日、妻と身代不動の傍から用意もなしに乱暴に山の中へ入って

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行った、十年も前の事だ。
そこが志賀峠と確かめたのではないが、私たちは開通間もない比叡山ドライヴウェイの小癩な金網の
向こうに、きらめく琵琶湖を見た。湖岸にひらけた人里は穏やかな極く田舎びたたたずまいで、冬の日
の下に静まっていた。
「まあ、見て」
指さされた湖の上に、一瞬、光が渦を巻いたか、明るい瑠璃の色が波間を輝き揺らぐのが見えた。
「ようし、行こう」
ウメモドキが無数の赤い珠をつけていた。やがて、沈むふうに急に木暗い山ふところに呑みこまれ、
幾折れもの谷水に惹かれて下りるうち、前方に崖を控えた所へ出た。人にも忘れられた崇福寺の跡だっ
た。木叢(こむら)に蔽われ無造作に土を盛り石で囲って石碑が立ててあった。
都合よくまるい礎石が一つ露頂していた。肩を触れ合う恰好で腰をおろすと、正面に「崇福寺旧廃
址」の碑面が何かの墓めいて眺められた。坐ったまま私は引き寄せて妻にキスした。どこかに金縷梅(きんろばい)の
咲き群れたのを見たと思った。
顔を離して、妻があっと言った。碑の前に、いつ現われたのか六つか七つの子が私たちを見ていた。
片手を握り、片手で碑の根を囲った岩に触れて、女の子はぴょんと地面に飛んで下りた。妻にわるい事
をしたと思うと私はつとめて明るく少女の方へ声をかけた。
ピンクのセーターから手首を長めに出し、女の子は悪びれもせず、小走りに寄ってきた。散髪したて
のボイッシュなさらさらした髪の下で眼が笑っていた。妻に訊かれて、山の麓が南滋賀町の滋賀里であ

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る事をきちんと答え、自分の名前はまりいという具合に少女はすこし伸ばして発音した。

咲さんが淹れてきた茶の香は酒の味を消すほどであった。蘭かと訊くと、蘭だけでなく爪の先ほど肉
桂(咲さんはニッキとなまったが)をかいておろすのだが、分量を多くすると臭くなると言う。ふと嵯
峨天皇に崇福寺の長老らが煎じて進めたという遠い昔の茶の味を想像した。床を敷いておくかと訊かれ
た。想像していたのとあまり違った呼びかけに、一瞬どきっとした。
「あの尼さん、あれでちゃんとお勤めなどするの」
はあとだけで咲さんは返事しなかった。私は床はもうすこしあとでいいと言った。
当来寺の石仏が何時となく盗まれがちな事をさっき尼さんは言っていた。大昔には棄て弥勒といわれ
た石仏の新しい宿世(すぐせ)を苦々しく私は考えていた。当時開山は道行、という事も頭を去らない。道行が、
崇福寺にいた道円とどんな関係であったか残念ながら私には分かっていない。しかし二人が一繋がりの
人物である事は間違いなかった。幻が立つように二人の間にあの十市皇女の影が浮かんできた。皇女(ひめみこ)の
姿は、訳もなく、私に、正倉院の鳥毛立女のように、髣髴とした。
「是歳、沙門道行、盗草薙剣、逃向新羅、而中路風雨、荒迷而帰」と、ただこれだけが「日本書
紀」の天畳紀に見える道行の記事であり、是歳とは天智の七年(六六八)天智即位の当年である。「古
語拾遺」にも「外賊偸盗、不能出境」と謂い、むろん容易ならぬ事件だった。熱田神宮の縁起では、

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神剣の威徳かのように縷々述べているけれど、この新羅僧が風雨に惑わされてむざむざ都に戻った顛末
を終始あやつったのが、誣術(ふじゆつ)に長(た)けた十市皇女であった事はわずかに「湖国志料」だけが伝えており、
同時に堅田当来寺棄て弥勒の謂われにも筆が及んでいるのである。それによれば、当来寺は実に崇福寺
のなれの果てなのであった。
もともと近江崇福寺の建立が天智天皇の七年(六六八)、勅願によるという事は正史にも記載が見え
ない、ただ「日本紀略」の延喜二十一年(九二一)のところに、崇福寺焼亡の記事があって、建立以来
二百五十三年めとかかれてあるのに拠っているのだが、「扶桑略記」などという本を見ると、この崇福
寺はもと佐々名実長等寺(さざなみながら)山(三井寺の背後、やや北西)にあり、後に尾根づたいに北(志賀峠の裾に当た
る)長尾山中に移したという伝説を挙げている。
近江大津京は、崇福寺には東南の方角に位置していたという言い伝えが古くからあったので、ここに
大津京を長等からみて粟津の辺と見るか、長尾からみて南滋賀一帯と見るか、うるさい議論が絶えない
のであるが。
この議論にはしかし何れにせよ消息に通じない後の人の誤解もまじっている。なるほど崇福寺は確か
にもと度等山の麓に建てられていたけれど、それは近江遷都の大分以前から、今の錦織(にしごおり)辺に住む新羅の
帰化人らの手で守られていたもので、後に天智勅願によった長尾の崇福寺とは別の、当時湖東の百済(はくさい)寺
に対して湖南の新羅(しんら)寺ともいわれていた、来歴の古い寺院だった。殊に穴太(あのう)辺りに産する石を刻んで無
数の弥勒仏を寺域の外に立てめぐらせ、それは湖東の石塔(いしどう)寺が巨大な阿育上塔を中に霧しい石仏で一山
を埋めたのと似て、夙(はや)くから大いに半島風の異色を人に知られていたのである。

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古来近江には半島、大陸の俘虜や帰化人が多く住んだ。神崎、蒲生、栗太、愛知(えち)、高島などの諸郡に
は、久しい間に百人、四百人、七百人とそのつど土地を与えられ、詩文、識字、機織、牧馬、建築、造
像、工芸などの技を播めたばかりか、異国の習俗宗教など多くの伝説とゆかりの地名を湖国全域に遺し
たのである。
新羅寺の創建は遠く推古天皇の八年(六〇〇)に遡る事ができる。新羅と任那(みまな)が相攻め、日本から境
部巨(さかいべのおみ)摩理勢が将軍として出兵、新羅の王城を攻略した事は書紀に詳しいが、摩理勢はこの時、かの地の
主に機織の工人と併せて物の師となるべき沙門ら、およそ百五十人を率いて戻り、朝廷は近江の長等山
前(やまざき)に住地を与えた。
当時殊に朝鮮で盛んだった弥勒菩薩信仰はなお故国を喪った帰化の俘虜の心に生きのび、崇福寺建立
の勅許もやがて得られたのである。宰領には言うまでもなく、境部氏が当たっていた。
ところが、斉明天皇崩御のあと、三百年来の半島経営からほぼ全面の撤退を強いられ、さらに新羅、
唐の侵冠に備えねばならなくなった称制の太子中大兄皇子が、ついに都を畿外近江に遷したその年(六
六七)の十二月、にわかに崇福寺は朝廷の譴(とがめ)を蒙り、沙門道円らおよそ十余人が粟津の浜で斬られて
いる。太子は夥しい弥勒石仏を残して堂舎悉くを焼き払わせ、やがて石仏をさえ堅田に移し据えて新た
に当来寺を興させた。
唐突なまでの激しいこの処置を、太子は、さきに唐から帰国して間もない境部石積(いわつみ)に命じている。崇
福寺が表むき弥勒を拝むと謂いながら実は寺中秘かに新羅土俗の魔像を崇め、かたがた朝廷を呪咀する
趣が露われたからとは処罰の理由であったが、これは必ずしも虚言でなく、ただ土俗というのが当たつ

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ていなかった。帰化人には当時いわゆる密教密儀を奉ずる者もかなりあって、崇福寺でも頗る異色の修
法を行なっていたから、事々しい祈祷の様子が悪しざまに洩れ伝わるというのも十分あり得たのである。
しかし今ことさら崇福寺が咎められ、久しくこの寺を奉行した境部臣みずから苛酷な処置を強いられ
たには、また別様の隠れた経緯が絡んだ事を知る必要がある。
称制の四年(六六五)、太子は守君大石(もりのきみおおいわ)を正使に、境部巨石積を副使として唐の高宗封禅の儀に加わ
るべく渡海させた。一行は途中大石の死に遭い、また主な使命にも結局間に合わなかったが、しかしこ
の遣唐使らは別に太子の特命で、勅願の新大寺のため、仏舎利ならびに舎利容器一具を入手する事にな
っていた。
境部石積はつつがなくこれを果して、六年(六六七)十一月九日には新都近江大津に帰任、「精緻香
潔」の仏具を驚喜する太子の手に届ける事ができた。石積は労を嘉(よみ)せられ直ちに小山中の位を二越して
大山下(げ)に叙されてもいた。ところが崇福寺覆滅の事は石積ら昇叙の直後、異様に急激に沙汰を見たので
ある。崇福寺は半日のまに瓦礫の山と化した。
この時太子は群臣を呼んで、明けて正月の即位を告げた。どよめきは歓呼と変わった。七年もの空位
と称制はそのまま人心の不安だったのである。
語をついで、太子は陰欝に、自分はつい先日或るふしぎな夢を見た、と語っている。即ち、これより
北西に当たって、山中ひとり仙を行ずる老人がいる。老人は夢中一つの岩に坐して端然と何かを虚空に
見凝めていたが、やがて真向いの峯に金輪(きんりん)をいただいた一躯の仏体を現じた。と、仏は老人の頭上に乗
り移ったかと見ると仏も老人もなく、ただ岩の上に一双の仏足跡を印して、そこで夢がさめた。この岩

(祷、躯 を使った。本来の文字を表記できない。)

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を尋ねて、その上に大津京を守護するにふさわしい壮麗な仏舎利塔を建立したい、併せて仏学問寺とし
ての結構を得たい。
太子はこの寺を新たな崇福寺と呼ぶつもりであると言い、強ちにかの新羅崇福寺を潰えさせたのでは
ないとつけ加えた。
七年(六六八)正月三日、中大兄皇子は即位して天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)と呼ばれ、同日、新崇福寺の事も
宣せられている。今の南滋賀の地に、新しい宮殿があたかも仏寺の如き結構を備えて一応成ったのが同
年の秋瞑れる頃であり、崇福寺は翌春、若葉に花の色の映える時分に落慶の供会(くえ)を修したと「本朝帯
礪(ほんちょうたいれい)」は伝えている。
それにしても長等の旧崇福寺の唐突な破却には理由がなければならない。
昇叙の事があって間もなく、一行の一人吉士岐弥(きしのきみ)は、副使石積が舎利のほかに内々に一対の瓷器(じき)を持
ち帰って大海人皇子に献じている。また摩詞不思議の仏器を数多くかの崇福寺に寄進していると太子に
告げた。遣唐の公使は随従に至るまで私の用に海彼(かいひ)の品をたずさえ帰り、また吾が国の品をたずさえ渡
とが
るのを禁(いま)しめられていたが、むろん表むきの沙汰で、かつてわざとの譴(とが)めを蒙った者はなかった。にも
かかわらず、岐弥の言葉は太子の逆鱗に触れた。岐弥が推讃するような、輝く青瓷の、玉(ぎょく)さながらの肌
に太子とて手を触れた覚えがない。
翡翠の曲玉(まがたま)を摘んでこれと何(いず)れかと太子は岐弥に問い、岐弥は恭しく玉は玉である、瓷はたかが土を
焼いた陶(すえ)の物に過ぎないが、色の美しさ艶やかさでは甲乙を言いがたいと答えている。
太子の顔色は動いた。屈する思いを励まして太子は、青瓷が姿佳き盞(さん)であると知った。女の掌に容れ

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て、わずかに薄い口づくりの辺が露われるくらいの華薯な酒器だが、酒を満たせば露をふくむ蓮の若葉
の、水の上にある如く匂うであろうか、と岐弥はほめた。
太子は奔る影を追うように弟の大海人を想った。丈高く、活気に満ち、大胆なくせに水底に息をひそ
めているような、磊落にわざと大まかに人にも我にも振舞って見せているような大海人は、暗く騒ぐ太
子の眼の底で、畿外に都を求めたのを譏る声々に守られる如く、群臣にまじって静かに顔を伏せていた。
岐弥が、石積が大海人皇子に献じたと語ったのは、だが、殊さらに事を構えたというべきで、青い盞
は石積の久しく奉仕する十市皇女の為にもたらされたのだった。

崇福寺の遺跡は、二つの渓流を中に、舌のように湖の方へ流れ出た三つの尾根と斜面に展がっていた。
こっちにも、あっちにもと、まりいちゃんは妻の手をひくくらいに案内してくれた。「いつもこんな所
で遊ぶの」と妻は訊き、頷いて、まりいちゃんは平気だった。
塔趾とある場所には、いかにも山の端の岩盤を掘り窪めたらしい底に、厚み一メートルちかく、径は
およそニメートルもありそうな巨岩が沈められていた。大昔、この岩の深く穿たれた丸い凹座に三重の
塔の太い心柱が打ち立てられていたかと想像するだけで、訳なく肌に風立っ心地がする。
「あら、あれ何かしら」
見ると岩の側面、南に向いた側を岩の表と同様に平らに削った真中に、縦横三十センチ位にまるく彫

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りこんだ痕がある、いや痕でなく、明らかに岩の横穴をふさぐ同じ石の蓋に違いなかった。「舎利穴や」
と叫び、妻がとめるのもきかず私は柵を乗り越えて、岩窟にとびこんだ。
石蓋はセメントで固めてあった。音させて、平手で心礎を叩きながら、照れて上を見た。眼の前に、
覗き込む少女の瞳(め)が微笑(わら)っていた。微笑いは、智めるような静かなふしぎな焦点を私の眼に結んでいた。
私は急いで這い上がった。
妻の傍に戻ると、女の子が握っていた右手を私たちに突き出して、開いて見せた。見馴れぬ、黝(あおぐろ)い一
枚のまるい金属が栽っていた。
「あげる」
自分の掌に栽せ、妻は「重いのね」と咳いた。
何か分からない、子どもにありがちな埓もない宝物だと私は思った。大した理由ではなく返した方が
いいと感じたが、女の子は急に「帰る」と言うなり飛び立つようにかけ出した。「ありがとうまりいち
ゃん」と妻の声に一度は振り返ったが、にっと笑顔になっただけで、細い滑り台のような山路を、たか
だかと下駄の音をさせて見えなくなった。
妻は得体の知れぬ鉱物をずっと手放さなかった。呑気なようで実は苦しかった婚約時代を記念したい
女らしい感傷ではあったろうが、やはり大昔の廃寺趾で得たものであり、磨けば妖しい銀色に変わって
きた事も妻の心を魅するらしく、黝(くろ)い銀貨と呼んで大事にしているのである一一。
奇異の思いに心を揺られ、風呂敷を片手に握りこんだまま新大阪の駅へ下りた。咎めだててくる人も
なかった。乗り換えた電車の中で私は風呂敷を鞄に入れた。

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買物は阪神百貨店でと決めてしまうと、迷わず工芸品の売場を人に訊いた。五分と見ないで芙蓉と菊
の色鍋島の皿を選んだ。気に入って、ほっとして、私は店員から筆を借り、自分で粗品、医学研究社と
書いた。小紋の風呂敷が役に立った。
平沼教授は病院長室で字を書いていた。まだ白衣だった。
「わるかった、わざわざ。ま、君がいないと意味もないし」
縁のないメガネ越しに、教授はのっそりした口調で真面目くさって私の顔を見、急ににっと相好を崩
した。会釈して黙っていた。
宴席は京都で、それも私の実家に近い円山(まるやま)の左阿弥と聴いて、ほっとした。平沼教授は同じ京都で平
安神宮の東の方に家があり、左阿弥だからと前に言うておけば私も大阪まで出て来ずにすんだのにと、
教授はそれで「わるかった」を繰返しながら、相変わらず大きな眼をぎょろぎょろさせ、片手はまだペ
ンを握っていた。
「君、大阪の仕事はほかにあるんですか」
「いいえ、特にございませんが」
「それなら一足先に一度お家(うち)へ帰られて、六時過きにお出かけ下さい。家内が多分行ってるはずですか
ら」
教授ははでな風呂敷にちょっと眼をとめる顔つきになって、「わるいがそれはあとで戴こうか」と言
い、またにっと笑った。
左阿弥でと聴くと父も母もへええと言った。「お祖父ちゃんのやけど何か着物出しとこか」と母は私

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を和服でやりたいらしい。ちょっとその気になりかけたが、やはりシャツだけを着替えた背広のまま、
六時すこし前に家を出た。出がけ、「えらいええ風呂敷えな」と母は見咎めて顔を寄せていた。
それほど高名な料亭も、今ではこうかと思うくらい、渋く、まあ渋すぎるほどだった。
「いやあ荒れよったなあ、この庭も」
そんな事を無遠慮に言いながらうしろからカタヵタ庭下駄を敷石に踏み当てて来た人は、着くなり奥
さんから、弟ですと紹介されたK大の藤田教授だった。萱葺き山家造りの茶室は左阿弥を建てた織田信
長の甥の頼長道八の遺構だが、生き難い時代を生きて若く死んだ人の巨大な墓も、庭の東の崖ぎわに立
っていた。
「こういう建物は使わんといかんのやが」
と頻りに感想を咳きながら、先生は私に慈鎮塔を知っているかと訊いた。まさか慈鎮和尚の墓ではある
まいが、左阿弥の前をもう二、三十メートルも行った山手に弁天祠がある、その裏にある石塔だ。

「墓はあの方が流石によろしいな。あれは君、法華経ですよ、法華経の見宝塔品(けんほうとうぼん)ですわ。塔の中に多宝
如来とお釈迦さんが並んどる。断然あの方が石の相がよろし」
「あの、先生」
「はい」
座敷へ戻りながら、私は先生の専門が歴史地理学である事を好都合に思って訊ねてみた。
「あのう、突飛な事をうかがいますが、先生は近江の梵釈寺跡の発掘などに就いては、あの、どのよう
な……」

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「いやあ古い事やねえもう。僕はまだ手伝いくらいしかやれんかったのですが行きました。むろん今で
もあの辺はよう行くんですよ。何せあそこはまだ僕らの領分でも何もはっきりしとらんのでね。第一、
あの勧学堂という場所が梵釈寺の跡かどうか、これは肥後先生が言うてはった事でね」
「はあ、実はその梵釈寺より志賀峠の方の崇福寺の事なんですが、あそこの発掘で何か変わった、何と
言いまし上うか事件のようなものがあったんでしようか」
「なるほどその事ですか。それならありました。大騒ぎでした」
何でそんな事をというような顔をするし、平沼教授夫妻が顔を見せて席も改まったので、話はそのま
まになった。教授はしゃんと着物に着かえ、なかなか白衣の時のものぐさな感じどころではない。
今度の出版や学術上の意義はこの物語にそう大事ではないので触れないが、教授の研究は日本の臨床
免疫学を一挙に数年分くらいは欧米の水準に近づけたといわれ、出版を企画して以来六、七年経過して
いた。その間、社内ではあまりに基礎的な研究で本にしても売れないの、時間がかかって効率がわるい
の、本の規模が当初の予定より大きくなりすぎたのと散々の不評で、一時は教授も厭気がさされたが、
思い通りの執筆を進めてもらうよう頼みつづけてやっと仕上がった。出版されてみれぱ、B5判の七百
頁を超える浩澣な著述は途方もなく高価になったけれど、高い評価を受け、会社も損はしない見通しに
なっていた。
「君、窮屈がらんでいいですよ」と教授に気をつかわせながら、どんな応酬があって何を御馳走になっ
たか、やはり端折るよりない事だが、祇園から花八重、寿々という舞子が来て、二度三度と糸の音が入
る頃からはすっかり席もくつろいで、さて藤田先生から蒸し返された崇福寺の話は、一時に酔いを醒ま

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す体のものであった。

太子は崇福寺を知っていた。蝟集(いしゅう)する石仏に朝日の照るのを見て、馬で長等の山辺を駆けた事がある。
物々しい三間一戸の楼門を開けさせ、金堂の階に倚ったまま帰化人に言葉をかけた事もある。だが寺を
住持する道円の面上に太子は謂われなく不快ないら立ちを認めた。敬いがちに新羅のことばで喚(おら)ぷよう
にものを言う時、年老いた道円の眉宇に反感の如きものが動くのではないか一一。
道円自身の評判はよかったが、道円周辺の風聞には太子の悦こぱぬものが幾つもあった。異教を祀る
かの如きはむしろ小さかった。
崇福寺には大海人皇子らの心寄せ重い事が知られていた。
それに境部臣は大海人には有力な舎人(とねり)でもあった。だが、とりわけ太子に耐え難い思いをさせたのは
大海人がこの寺で妃の■野皇女、他でもない太子の女(むすめ)と、ひそかに亡き蘇我倉山田石川麻呂らの法会を
営んだ事件だった。

(■野皇女(うののひめみこ)の『う』:廬鳥 !?)

法会を太子はただ噂に聴くのみであったが、それには動かし難い理由があった。
皇極天皇の四年(六四五)六月、中大兄皇子は中臣鎌子らと謀って蘇我入鹿を宮中に暗殺し、蝦夷(えみし)を
自殺させた。世は大化と称されて孝徳天皇が即位した。中大兄皇子は皇太子となり、やがて、皇位を競
うであろう異母兄の古人(ふるひとの)大兄皇子を窮死させた。

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この一連の政変の最初には、鎌子の勧めを容れた中大兄が何より先ず蘇我倉山田石川麻呂の次女造
媛(みやつこひめ)を妃に娶(め)し、蘇我本宗の専横を悦こばぬ石川麻呂を味方にするという策謀があった。
しかも改新が一応達成した大化五年(六四九)春、太子は事を構えてこの創業の功臣を妻子八人と倶
に飛鳥の山田寺に自ら経(わな)き死なせたのである。
太子はこの時物部塩(もののべのしお)をして死せる右大臣の首を斬らせた。坐に連なって戮(りく)された者十四人、絞(くく)られた
者九人、流された者は十五人に及んだ。太子の妃も父の死に心を破られ、やがて死んだのである。
みこ
太子はこの後も叔父幸徳天皇を難波長柄豊碕宮に拠り病死させ(六五四)、その皇子有間をもたばか
り死なせた(六五八)。全てやむを得ない古代の闘いには相違なかったけれど、漸く寒々とした心地で
太子は身辺を顧る事が多くなっていた。
■野皇女は、夙く死んだ姉大田皇女とともに叔父でもある大海人皇子の妃であり、祖父と生母の法会
を夫と倶に営む事に何の邪(よこし)まがある訳もなかったが、久しく悔い思ってきただけに太子にはこれが手強
くこたえた。大臣粛清に関わる流言や諷歌を太子が殊に嫌っていた事を、■野らはよく承知していたの
だ。しかも父は公然と女(むすめ)を咎め得なかった。情も厚いが男まさりに俊敏なこの皇女(ひめみこ)は、慎しみのまま、
却って父太子を赤面させるくらいの事は言ってのけるかも知れなかった。
太子は大化の頃から百済僧の智祥を召していた。曇鸞の「往生論註」「略論安楽浄土儀」「讃阿弥陀仏
偈(げ)」を吾が国にもたらし、後の崇福寺に阿弥陀堂を造る縁ともなった穏厚の沙門は、滅び去った故国の
夢に惹かれながら、浄土の教えを心寂しい日本の太子に伝えていたのである。
智祥は、道円らの崇福寺に真言秘密の教法の伝わっている事を悟っていた。しかもこの派の祈念が時

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に呪咀を混え易い事も知っていた。崇福寺が太子に未だ本尊仏を開いて見せないのは、おそらくは大威
徳明王を祭祀するためではないかと智祥は語っている。
新羅に限らず、百済でも、高麗でも、怨家を調伏するなどの修法(しゆほう)加持祈祷の本尊には必らずこの明王
を独尊像とする事、浄室に三角壇を作り、像を北面に据え、壇底には怨みある人の人形(ひとがた)を置くか姓名を
書き、持誦(じしょう)の者は黒衣を着、印を結び、忿怒して吠声を励まし、一七日の念誦を行なう事、そうすると
怨みの相手は悪疾業病に身は衰滅、血を吐いて斃死するという事などを智祥は話した。もとよりそれが
密教の本筋ではない。しかしそういう事になり易い教儀であるのは間違いのない所で、赤花を用いて供
養し、死脂を燈とし、人肉を香とする事もあるという話まで聴くと、太子はいかにも無残な表情で虚ろ
に眼をむいてしまった一一。
崇福寺が瓦礫と化した日、太子は弟の面上にかすかな憂色を見た。朝廷の内はひっそりと人声を絶ち、
智祥でさえも黙って一揖して太子の前を去った。
しかも、境部石積(いわつみ)は群臣の前で耀く青瓷に就いて糾問されたのである。
石積は恐懼の面持を作(な)してそのような事は全く存知しない旨を答え、忽ち言を翻して、実は一対の小
盞を恐れながら額田姫王に献じたと言い替えた。
石積のために二重に不運であったのは、この際額田の名を言う事で太子の不快に別の苦い記憶を添え
たのである。即ち石川麻呂の変に戮を蒙った者として、額田部湯坐連乙等(ゆえのむらじおと)の名が「日本書紀」に見えて
いるが、それは、額田姫王や姉の鏡王女(おおきみ)の養育に関わった大和の平群(へぐり)郡額田部の一族だった。乙等は、
当時姫王(おおきみ)が大海人皇子に秘かに娶(め)され、間もなく十市皇女を産んだ時、乞われて妻を乳母に差上げてい

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たのである。
境部の石積が十市皇女に仕えたのは、乙等の妻が夫のあとを追うて狂死した直後からであり、それも
むろん大海人と姫王の倶に望んだ事であった。今、咄嵯の石積の答辞は青盞を十市皇女に、または大海
人に献じたと言うのといささかも違わず、碗曲に言われた不快は太子の顔に薄い血の色を走らせさえし
た。
太子は慇懃無礼の少女、みずから弟に乞うて愛子大友の妃とした美少女十市をむなしく眼で探した。
少女は崇福寺の事件の直後にも叮嚀な挨拶を怠りはしなかったが、ただの一度も太子の顔を見なかった。
漢才に長けた大友皇子が、父の需めるまましばしば端正な詩句を吟ずる時も、若い妃はあらぬ方を眺め

るふりをしているかと見、える。どこか気味のわるい額田部に育った、始末におえないこの誣咒(ふじゆ)の少女は
太子の心をうとましく唆っていた。
額田姫王は太子の穏やかな問いかけにたじろいだ。
そのような物があるのか、ぜひ自分も見せていただきたいと大海人が即座に口をはさみ、姫王は、面
伏せに一礼をのこして座を離れた。はじめて、すこし笑みを浮がべ、太子はやおら注意を促したのちに、
明けて正月の即位を告げたのである。
額田姫王はやがて美しい漆皮(しっぴ)の箱をささげ持って戻ってきた。
太子は境部臣に、青玉にも似た盞に就いて語れと命じた、かの地では誰がかかる器を用うるか。
石積は額に汗を浮かべながら、青瓷の最良なるものはただ皇帝、皇妃の什物(じゅうもつ)であり臣は滅多に見る事
がないと答え、この盞は、長安近郊に建立中の大鏡禅院が鎮壇の具に越の窯に焼かしめたものの内から、

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強いて、請い受け得たものと言い添えた。

盞を掌に置き、わざと吉士岐弥(きしのきみ)の言葉を仮りて、太子の声が高くなった。見よ、露を含んだ蓮の若葉
のなお澄める水に浮かべる如くではないか、この円やかな肌ざわりはさながら淡い月の影を手に包む如
く優しく軽い。今、石積の語(い)うに従って、自分はこれを新しい崇福寺の塔の下に舎利と併せて埋め、美
しい限りの青の色をとわに秘めて、邪まな人の眼に曝すまいと思う。
水を打った一座から、いましがた母と倶に現われた十市皇女が立った。それは女の唇に触れて酒の香
を浴びたもの、清浄の仏器とは為しがたい。
太子は平然として構わぬと言い放った、ほかならぬ汝も母も神に仕える巫女采女(みこうねめ)の如きものゆえに。
どよめきが幾反りか座を左右し、前に控えた石積があらがいざまに顔をあげた時、やにわに太子は牙笏(げしゃく)
を掴んで叩きつけた。
十市の蒼ざめた美しい顔へ太子の慇懃な、しかし抉るような椰楡が真直ぐ突き当たった。思わず大海
人が動き、鋭く太子は兵を呼んだ。鎌足が出て巨駆を舞うように揺らめかせ、低いがよく響く声で忽ち
に騒ぎを鎮めた。
太子は唇を噛んで長槍を床に突き立てた、と「大織冠伝」は記している。

(掴 駆 略字)

平沼教授が、この頃やきものの掘り出しはと、私をひっぱり出したところから話題が動いた。それで、

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その掘り出しの話ではないが実はつい先刻汽車の中でこういう事を聴いたと、あずき小紋の婦人のいわ
ゆる渡来最古の青磁宝器が崇福寺から出たはず、という話をしたのである。
話す私が信じ難い上に暖昧な事であり、重みのない調子になってしまったが、藤田先生は急にしっか
りした声でこの際この件には深甚なる注意を払う価値があるといい出した。
先生によれば崇福寺の発掘はいわば時世の要請を遠因に、近江神宮の創建を直接の契機としていた。
皇家の御稜威(みいず)を宣揚する機運にあった昭和七、八年頃からにわかに天智天皇を尊崇する論が興り、近江
大津京と思しき辺りの景勝を選んで近江神宮を建てる運動が先ず進んだ。
帯同して、それより早く昭和三、四年頃滋賀県史蹟調査員の手で行なわれていた、旧志賀郡中の二遺
跡発掘を一段と徹底しようという事にもなった。この二遺跡というのが一つは南滋賀部落で字(あざ)の名を勧
学堂と呼ばれた台地であり、もう一つが大正時代より崇福寺跡といわれてきた通称志賀寺の跡だった。
ところが先に調査員の肥後氏らが、桓武天皇創建による梵釈寺の跡とみていた勧学堂一帯の発掘では、
推定通り白鳳期と考えられる複弁蓮花文の丸瓦やよそに類例のない方形のごく異様な軒瓦などがどんど
ん出たのに、天智の創建で純然たる白鳳期に属すべき崇福寺跡からの出土は殆ど平安時代を遡らないも
ののみで、梵釈・崇幅二寺比定の関係がまるで反対という結果で、ちよっと妙な具合になっていたので
ある。
そこで改めて史蹟調査員の柴田実氏を中心に両遺跡の発掘精査を進める事となり、藤田先生も助手の
一人として参加したのだが、まず手を着けた南滋賀の俗称梵釈寺跡は当時から大半民家の敷地に属して
いて外側に厚い竹薮があった。

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そのうち崇福寺の方で、偶然塔趾らしい山の斜面の雨崩れの土砂中に白鳳時代と証される立派な■仏(せんぷつ)
が発見された。その後は崇福寺趾に重点を移して、今度は着々と塔や小金堂を擁したらしい大きな基壇
までが確証されて行った。
漸く発掘調査の報告書をまとめる段になって困ったのは、殊に崇福寺趾のように複雑な舌状山地に展
開した遺跡地の全貌実測図をどう作るか、だった。とてもなみの測量技術では手に負えない。
この時、京大のU博士から推薦された某青年技師が測量にかけては抜群の腕前で、熱心かつ精力的な
事は関係者の誰彼なしに舌を捲いたのだが、仕事との関係上この青年は以前から、考古学的発掘や探究
にも非常な興味をもっていたらしいのである。先に■仏を発見した地元の某氏の家に起居を倶にしつつ、
青年はおよそ暮から春へかけて南滋賀と滋賀里の二廃寺跡の精密な実測図を作りあげた。眥ン
「ところがやね、今一つここに懸案が残ってましたんや。というのは塔趾には他の礎石類はみなちゃん
と遺ってるのに肝腎の心礎が影も形も見つかりませんのや。しかし、どうも飛鳥や白鳳の古いお寺の塔
だけは心礎を深く土中に埋めていたらしい、そんな例がちよいちょい知られていたんで、とにかく一ぺ
ん掘ってみよいうくらいの申し合わせがあったんですが、それをこの青年と、青年に宿を貸していたや
っぱり遺跡発見に熱中気味の某氏とが、どっちが言い出したんや分からんのですが、一緒に心礎の部分
を掘りたい言いよる。僕はまだ若うて言うてもやめんし、たまたま柴田先生もお母さんの御病気で家へ
戻っておられた。ちよっと病的なくらいな人でしたから、その青年は。僕は一応大学へ帰った時にU先
生にその事を報告したら、それはいかん言うて柴田先生のお宅へも連絡があったんです。
次の朝、僕らは大急ぎで某氏の家へ出かけましたがその人は昨日の晩遅うまでかかって金の箱を掘り

(■仏(せんぶつ) ■:土へん+専の本字)

35

出した言うんですわ。びっくりしましたなあ。柴田先生もあの時は真青でしたわ。飛ぶようにと言いた
いが、電車の中で地団太踏む気もちで青年のあとを追うて大学へ戻った。青年は宿直室でがちがちに固
うなって柴田先生の顔を見るなり、『これです』言うて両掌の上に突き出した。息を呑んだですわ。格
狭間(こうざま)の入った台脚の上に大きめの卓上煙草入れくらいの長方形の金銅の外箱でっしゃろ、その中に銀で
できた中箱、そのまた内側には金無垢の小箱、その蓋をあけたらさらに碧(あお)瑠璃の小さな舎利壷が金で造
った請花(うけばな)の上に咲いたように安置されてある。これは今も近江神宮の所蔵で、先ず地上に存在する舎利
容器としては最古最優秀のむろん国宝です。壷の中にはまぱゆいような水晶が二粒やったか三粒やった
か入ってました。お釈迦さんの骨という建前でっしゃろな。
ま、えらい感動でしたんやが、落ちついてみるとまたえらい事をしてくれたもんで、発掘発見の状況
が分からん。さ、根ほり葉ほりその時の事をたずねはしたが現場は元の儘に戻せない。それどころか心
礎のこんなすばらしい舎利器を納めた横穴にはほかに銀銭とか何か別の品もあったらしいがその品目も
点数もはっきりせんのです。
みなでまた現地へ行きました。これが珍らしい礎石で、普通は柱を受ける凹座の真中をもう一段小そ
うまるう穿ってあるんですが、崇福寺のやつは横穴ですのや、割と無造作に穴があけてある。蓋をのけ
ると一尺半くらいの奥行でした。穴の中はどうももとは金泥が塗っであったらしい、その時は朱っぽい
粗い地膚が残ってましたわ。
どうやってみても青年にも某氏にもきっぱりと元通りに品物が置けませんのや。大体は分かるが、右
の方に背鉄鏡があった、奥の方に小さな銅の鈴があった、台脚の周りに銀銭が散らばってたと言うが、

36

その辺に浚え出したほこりのような砂の中に刺玉とか木片が見つかったが、とてもそれらが元どんな具
合に置いてあったか想像もできないんですわ。
それはまだまあ肝腎な所だけでも大体想定で復元できたが、そのうちに関係者はふっと疑い出した。
ほんまに遺物はこれだけやったんかいな、というのは銀銭の枚数が青年は十一枚や言うし某氏はいや十
二枚で間違いない言うんです。何でもない事のようやが、発掘という仕事ではバカになりまへん。何し
ろこの時の仕事はお国の命令に近かった。近江神宮を建ていいうはなしも勅諚いう恰好ではじまってま
したさかいな。何しろ、たかが無文銀銭の一枚というてすます訳にいかん。それどころがこの無文銀銭
は日本最古のもので古泉家(こせんか)の珍重措く能わざるものや、めったに出土せん。こんな確実な遺跡からすぱ
っと見つかったなんていうのは研究者にとってはまたとない貴重なもんやとかけつけたU先生も強調し
てはりました。
さて新聞は書き立てるわ、総裁の高松宮さんまで来やはった。ところが青年は頑として一枚の行方が
分からん、いや疏水へ捨てたとかもうむちゃくちゃ言い出してとうとう警察で絞られた。ついでに某氏
もやられた、いや物凄う絞られだそうです。しかし結局出ませんでした。
その青年、死んだそうです。柴田先生もこの経緯を書いてはりましたが、何というても紛失とも盗難
とも確証のできんこっちゃ、疑い出したら何でも疑える。当尾(とおの)君の聴いた話いうのも、それは消息通の
デマかも知れんがひょっとしてほんまかも知れん。デマとしても青磁なんて考えたもんや、陶磁器をこ
ういうとこへ埋めた例はあんまりないですから、文字通り秘色(ひそく)やいう訳ですな」

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あまりに久しい摂政の皇太子時代の末に、中大兄皇子は漸くごく短かな皇位の時期を迎えた。仏舎利
と容器は長尾の山深く三重の塔心礎の横穴に秘匿され、青盞もまた同じ舎利孔に鉄鏡や銅鈴と併せ埋蔵
された、と、およそ以上は「本朝帯礪」「湖国志料」「日本国現報善悪霊異記」「皇胤紹運録」「浄御原帝紀」、
さらに「崇福寺過去帳序」「故事拾遺」など却って正史以外の文献に断片的に記されている所である。
ただ先に挙げた道行盗宝剣の一事だけが「日本書紀」にも見え、別にこれを十市皇女の妖事(アヤカシ)と推(すい)した記
事も「湖国志料」には見られるのであるー。
用を足しに出た私は寒さに思わず身震いした。帳場へ寄って床を敷くよう言ってから、丁字(ちょうじ)の香のす
る木造りの暗い便所にしゃがんだが、そんな恰好で、夢のあとを追うように私は奈良朝の詩集である「懐
風藻」をはじめて読んだ時、その二百の漢詩と併せ葛野王(かどののおおきみ)の伝を見て苦い気もちになった事を想い出
していた。
持統天皇の十年(六九六)七月、太政大臣高市皇子(たけちのみこ)が急に逝去し、藤原の宮廷では立太子の事を慎重
に運ばねばならなかった。女帝はもとより風く死んだ愛子草壁の子の軽皇子(かるのみこ)を立てたい。壬申の乱以来
変わらぬ浄御原(きよみはら)朝、藤原朝の重鎮だったとはいえ高市皇子の死は、好機であった。だが高市と並ぶ先帝
天武天皇の皇子らもなお何人かは健在だった。
天皇は皇族、重臣を聚めて協議の体裁を調えたが、果して衆議乱れて決まりがたく見えた。この時葛
野田が「進み奏(もうしあ)げて、我が国の法によれば神代以来、子孫相承して天位を襲ぐと決められている。もし

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兄弟に相反ぷ時は、乱れはこの事よりおこるであろう」といい、「聖嗣自然定。此外誰敢間然乎」と天
皇の本意が軽皇子にある事を察して群論を抑え、剰(あまつさ)え何かいいかけた弓削皇子を叱りつけて黙らせて
いる。
子孫相承が神代からの法であるというのは明らかに歴史上の事実に反している。それと承知で発言し
たのか、或いは天智天武の間にあって王の父大友皇子が皇位継承の紛擾に惨死した事情を暗にいったも
のか、何にしてもこの時の一言が国を定めた事を嘉(よみ)され、のち特に五四位の式部卿を拝したと、伝は専
らこの事を特筆しているのである。
今この事と、伝の冒頭に「王子者。淡海帝之孫。大友太子之長子也。母浄御原帝之長女十市内親王」
とある簡潔な出自の記事を併せ想う時、さまざまの不思議というか、我が身の上にも事寄せて苦々しい
宿世ふうの感懐を私は禁じえない。伝は果して事実を伝えているのだろうか一一。
塵出しの小窓をあけると寒気が束になって股間を打った。幅の広い笹が眼の下に群生していて、夜と
いうものの声をさやさやと鳴らす。一人の旅に馴れていながら、やっぱり一人の旅の寂しさを感じた。
部屋へ戻ると咲さんが寝床をつくっていた。お炬燵(こた)布団だ。むっくりした炭火のぬくみに埋もれ寝た
幼時の記憶が甦えるのも、悪くはなかった。晩方には火が落ちてやぐらごと冷えてくる事もあったがと、
想い出ぱなしをしながら、私は夕刊を拾い読みした。「ご退屈やろが」と咲さんは年寄りらしい愛想を
いった。
幻花庵には客を泊める部屋は他に四つしかない事、尼さんも同じ家の中で寝泊りしていると私は聴い
た。そして当来寺には見た通りあの宝形造の堂一つだけが遺っていて、堂の中には一駆の不動像のほか

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に買って間もない新しいピアノが一台入っている、尼さんとその若い娘さんとがよく稽古をする、とい
う話も咲さんはして行った。娘は京都の学校に籍があり、遠いので寮生活をしているが、週末には帰っ
てきて、その晩だけは二人で不動堂の方へ行っている。それも今度は期末の試験とかで帰れなかったな
どといい、訊くとそれは私や妻と同じ大学の話だった。
尼さんがどんな過去のある人で、何でそんな娘もあるのか知りたかった。しかし咲さんは余計な事は
喋らなかった。私は片寄せた机の方へ寄って、旅さきの慣わし通り東京在の私自身へ宛てた心覚えの手
紙を書いた。
「昔から琵琶湖の舟運は近江人の生活を左右したものです。中でも堅田は湖中の漁業権を握って湖を制
圧した事もあり、室町戦国時代には半商半賊の湖冠(ここう)となって、堅田四十九浦はその根拠地となっていま
した。せめてその名残でもと思ったのですが堅田港もただ侘びしい舟つき場と廃れていて、わずかに堀
割の入り組んだ部落の風景に、環濠(かんごう)の面影をみるぱかりでした。
町の中には古めかしい商家の遺構が多く、それも研(とぎ)屋、麹屋、油屋、船大工、豆腐屋など、古暖簾を
大事にかけたような、いかにも堅田衆といわれた人たちの、古い町の風情でした。
居初の庭は雪を被(かぶ)っていて、実際の表情はつかめませんでしたが、むずかしい美術史的な詮索など抜
きにすれば、京都あたりの相当な庭園にも劣らないみごとな配置で、しかも、そこに何人も人が住んで
暮している味わいが、寒中ながら温かに漂って、書院はそのため幾分古体を崩した雪見障子や蛍光灯で
感じが違いながら、それが却って恵まれた生きた建築の味になっているのを感じました。つまり、わざ
わざ来て、失望はなかったのです。

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それに何より、居初の紹介で当来寺の宿に入ったという事は、短い休暇の一夜を費し、留守をした迪
子や朝日子たちの不満を差引きしてみても、やはり思いがけぬ幸運でした。子もちのモロコには季節は
早かったが、鴨すきにはありつけたし、当来寺が此処にこうして存在した以上、君のあまりに小説じみ
た詮索事にも、かなり実感が湧くというものです。
それにしても君は何でそうも琵琶湖と近江の国に心を寄せるのか一一。
大分飲んだ筈なのに、さっき振舞われた茶が利くのか睡いという感じではありません。また宿の主人
が尼さんというのが妙に気になって叶わない。少々気味がわるい。幸い今夜はないそうだが、これで尼
さんと娘と二人して、不動の忿怒相の前でピアノの連弾などやられたら、脅えてしまいそうです。これ
はてっきり君の十市皇女が、妖しげなおよずれごとを今この部屋の上にも網かけているのかと想うと、
及び腰にきよろきよろ辺りを見まわす心地です。
と、今どこかで物が当たる音がしました。鋭く、短く人の声もしたようでしたが、もう元のように全
く静かです。雨は降っていないようです。
驚きました。今まで何の気もなしにただ眺めていただけの床の掛物がこう読まれます。
近江の湖(うみ)は海ならず
西方浄土の池ぞかし
常楽我浄の風吹けば
七宝蓮華の波ぞたつ
法住と署名のあるのは蓮如と一緒に比叡山と争った念仏の僧ですが、この歌を上の方に、下はただ余

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白と思っていましたが、点々と墨の飛んだ痕かのようなのは蘆辺であるらしく、夜が更けるにつれて、
墨の色も文字のかたちも、余白さえもが、まんまんとたたえた湖水の大きさに眼にうつって来ます。」
ここまで書いて、寒さに我慢ならず私は布団へ這い寄った。電気を消す気になれなかった。
十時前だった。迪子らは起きてテレビを観ているだろう、父や母のいるテレビの前の妻の顔、娘の顔
を私は仰向けに寝たまま想い描いた。私たちの結婚に父も母も大騒ぎをした。当時妻に知られたくない
いやな諍いも家の内に頻(しき)った。それも一昔前の事だ。娘が生まれ、去年には男の子も生まれて誰も至極
あたりまえに仲良く往き来している。物に拘泥らない妻は今では偏屈な私より親の受けも良いのだ。そ
れでも孫というものがなかったらと、ちょっと皮肉に想像してみた。天井に映していた妻の顔が心もち
窮屈そうに歪んだ。なべて人と人を架け渡す脆弱(ひよわ)な橋のさも揺らぎ易い影のように。
戸籍によれば、私は滋賀県神崎郡能登川村二百十一番地の山田太郎の家でふくを母として生まれなが
ら、即日私一人の新戸籍を京都市右京区西院乾町四十九番地に設けられている。やがて同じ京都で東山
の麓の、義理ある今の両親の家に迎えられたらしいが、私はこの間の事情を知らぬまま高校まで進んだ。
西院乾町では何の手がかりもなかった。
高校三年の時、私は学校へ出ないで京都駅から東海道線の能登川まで汽車の切符を買った。安土から
一つ先の駅を興奮を抑えかねてとび出したが、平凡な、静かな田舎を見ただけで、想像と違って湖水へ
も遠かった。尋ねあてた山田という家で、私はただ当惑して口ごもるだけの孝夫婦を見た。ふくと名告
ってくれた人を見て即座に母でないと信じた。けれども、この人たちの口から強いて訊き出すに忍びな
いふしぎな感傷も私を捉えた。

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山田家を出ると、教えられた道を長いこと歩いて入江らしい所へ出たものの、地図の上では目と鼻の
先の沖の島も見えなかった。菜の花が溢れた畑の畦に坐りこみ、落胆と疲れとで掌(て)で顔を包んでしまっ
たのを覚えているが、汗ばんだ自分の両掌がつくった底ぐらい佗びしい世界には、涙の代りにただ「近
江の海夕浪千鳥汝が鳴けば」という惹き入れるような声が流れていた。
生みの親を恋しいと思うのではない、と思えば思うほど絡まり寄ってくるものがあった。何かわから
ないそれに催されて妻とも逢った。子をもった。勤めの傍ら小説というものに書いてでもその気持を処
理しようとした。だが、どうかきまわしても絵にならない暗い血の渦を覗く脅えは思いを去らない。こ
の当来寺を、堅田の冬にまみれながら尋ね来たのもただ旅さきの思い紛れではなかった。
寝入る前にと、また手洗いに立った。寝衣に、毛糸の大きな肩かけを被た人がざあざあ水を出して顔
を洗っていた。まるい尻に藍の芙蓉がぽっかり咲いていた。古びた朝顔をりりりと鳴らしながら、芙蓉
の花は今どこかの部屋へ入ったなと想っていた。

「ひそくて何どすね、せんせ」と花八重が口をはさんだ。
「これは失敬」

藤田教授はひょいと手をのばして、雅(が)な折敷にまだ幾つも伏せた石盃(せきはい)の中から、青磁の猪口を一つつ
まみあげた。

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「これを見てごらん、どや左阿弥ご自慢の砧(きぬた)青磁やで。昔のえらい人が着た絹はとんとんとこんな大き
な木槌で打ったつやあと光った柔らかい生糸で織ってあるんやが、これこのお猪口のこの青い色、底の
知れんような静かな優しい艶はどうやね。昔の人はこういう青磁の肌に何ともいえん憧れをもったんや。
ところがこういう色は日本の陶器ではできん。それで青磁というとみな中国から運んできたが数がない。
天子さんとか摂政関白とか何せえらい貴族が大事に蔵(うて)たんで、たまにしか見られんもんや。そやさ
かい秘め隠された珍重された色やいうて秘色、ひそくと呼んだ。当尾(とおの)君、これでよろしか」
「はい。ただ、天智天皇の朝廷に入ってた青磁があれば当然初期の越瓷(えつじ)か唐初という事ですが、となる
と同じ青でも七世紀までのものは後の『千峯翠色』とか『雨過天晴』とかはやされたなめらかな深い色
と違って、青緑がかった釉(くすり)の、陶器よりは堅めというくらいな磁器で、色めは浅く明るく、焼き緊めも
すこしゆるめだったんじゃないかと思います」
「なるほど。要するに中国の人は大昔から玉(ぎょく)の色や艶を殊のほか愛した訳ですね。そやからやきものの
表面に玉の肌を写そうとそれは熱心にやった。白磁もそうやが特に青磁。茶碗は青玉をくりぬいた碗と
一つに見えるまで工夫した」
「ほな先生、その大したお猪口でおひとつおいきやす」
寿々という舞子が幾分先生の長ばなしの腰を折るように酒をすすめたので、みなが笑った。
私も笑ったのだが、胸の中は秘色どころではない。あれが、妻の財布の中に蔵われているあのお守り
の黝い銀貨が、紛失したその一枚の無文銀銭ではなかったのか。銀銭の形状を問い重ねてみると、言下
に得体の知れぬ鉱片が貼りついている筈だと、先生は指の先で大きさまで空に描いて説明した。言いか

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けてぐっと口をつぐんだ。酒も手伝うのか頭の中では、崇福寺跡の少女の謎めいた微笑に、京都駅で見
た娘の表情がだぷって、揺ら揺らした。
宴も果てる頃、藤田先生は立ちながらちょっと私を呼んで肩に手をかけるくらいの恰好で、「さっき
の話やがね。近江大津京というのはまだ何もはっきりしとらんのですよ。大海人皇子(おおしあまのみこ)が吉野へ退(の)いてか
ら天皇が死ぬちょっと前には、皇居のどこかから火が出て回禄したいうことは日本書紀ではっきりして
よってね。どうも崩御は一時崇福寺辺へ運ばれてからやないですか。あの崇福寺の塔というのが、ほん
まに天智天皇即位と同年には建っとったか。どうも僕はあの塔だけは、娘さんの持統天皇の一年に完成
したんやないかと思うてるんですわ。いやもういらいらする位はっきりせん」と念を押すようにいいか
け、急に、「それにしても、今晩のあの本はええ本でした。しっかりした製本で、写真がよう出とる」
とちょっと場違いな感想も洩れたのがおかしかった。
車は辞退した。
流石に気草臥れがして、風呂敷一枚を手にひとり祇園石段下からぷらぷらと四条通を行きながらも、
頻りに知った奴に逢ってみたかった。
電話で呼び出され、三条堺町からわざわざ川東の縄手まで来てくれた黒田は、待ち合わせた今昔の地
下バアが満員と見ると、すぐ、上の喫茶室へ私を誘った。
大学を出るとそのまま養家の商売を引きついだ黒田は、老舗の菓子の味を呑みこむために好きな酒も
一時やめたほどの律気者で、親類の娘を嫁に貰ったりちょっと我々の仲間では古風な美談に属する男な
のだが、スリムなズボンの上へ朱いスポーツシャツの衿を立てた恰好で「おい」などと現われたところ

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は、まだまだ気の若い遊び旦那に見えた。
思ったようにやがてテーブルに置いた風呂敷を「椅麗なもんやね」と黒田は摘みあげた。
風呂敷一枚はただありがちな忘れものといえばすんだものを、いかにも絵空事じみてあれこれ話すう
ちに、黒田も「王」という姓らしい染め抜きの一字を眺めて、「そうか、ほんまに中国人やなあ」と呟
いた。崇福寺の青磁にも黒田は興味をもって車中の人と同じ質問をした。
盞と答えながら、盞はさかずきというに近く、玉露などを淹れる湯呑に似て、小さめな端正な酒器で
あれば、なるほど舎利孔に容れる事ができる。だが、と私も頭の中にある中国陶磁の知識を総動員して
ふさわしい類品を想像してみたけれど、咄嵯には想い浮かばなかった。その浮かぬ顔を見て黒田は当時
司直の糾弾を受けた青年技師や協力した某氏の事を訊ねた。これは私も、また居合わせた誰も知りたか
った事なのだが、藤田教授は終始名前を伏せて話し、それはそれで当然の事だったのである。
「君、滋賀里まで、風呂敷、返しに行くのか」
「まさか。が一一」
黒田はもういいというふうに手を振り、バアヘ行こうと言った。
酒が入ると二人の話題は水の流れるようにお互いの親の事へ動いた。
私には一つ家に七十前後の父と母と叔母があり、黒田には大して変わらない年恰好のやはり義理ある
老父母がいる。見るたびに老いを深めて行く事を眼にとめながら、年のわりに元気でいてくれると言い
合う時私たちは妙に寂しい。二人は女同士が舅姑に仕える心づかいを告げ合うふうな趣で、だが、いっ
そ静かな口調で同じ事をよく話してきた。

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「君は今でも実の親を知りたいのか」
黒田はサラミを指さきにつまんだ恰好で、ぽつんと言い出した。「え」と顔を彼に向け直すのを押さ
えるように、今日のこの一件、何となくそんな話に結ばれて行くものかと想像されてと、彼は声に出し
て笑った。私もそう想っていたし、そうも黒田に言いかけたい衝動をもちながら、先にこう朗らかに笑
われてみれば、さっぱりした、やっぱりそんな世離れたお伽噺のある訳がない事は合点が行ってしまう
のである。
けらけら笑い出して、「そんな事だと面白いんだが」と私も無遠慮に言ってみた。堅田の町を流れて
いた寒い風の音が、耳の底に切なく一一甦った。

何にしても十市皇女をめぐる事績には暗く妖しい部分がある。暫くこの皇女の出自を顧て愛憎の縁を
辿ってみよう、すると別に一の幻妖な事件に逢着する。
十市(とおち)の名は皇女の出生の地を示している。即ち三輪山の真西約一里、南にすぐ耳成(みみなし)山を望む所を十市
といい、北へさほど遠くなく祖父鏡王(かがみのみこ)の本貫鏡作郷があった。十市の母額田姫王は姉の鏡王女(かがみのおおきみ)と共
に鏡王の家から飛鳥の天皇家に捧げられた宮人で、十市の地で秘かに出産したのは姫王(おおきみ)十七歳、時あた
かも大化二年(六四六)の真冬だった。
なぜ秘かにというか。姫王が殊に祭咒に奉仕する采女ざまの職分を与えられ、大海人といえ寄り■(たわ)け

(■(たわ):女を縦に二つ並べて辺とし、つくりは干。姦と同字らしい)

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る事は禁(いまし)められていたからである。
また姫王ほど尊貴の所生が采女に似た処遇を受け、また姫王自身殆ど終生その任によく耐え、宮廷の
大事に際してしばしば秀れた応詔咒歌を成し得たには、保育に当たった額田部(ぬかたべ)氏と関わる所が大きい。
額田部氏は鏡作郷よりさらに北へ約一里、平群(へぐり)郡額田郷に古来蟠踞した出雲系の旧豪族の一つであり、
宮廷の典儀、それも主に異国の個人を送迎する際の神事に当たっていた。出雲の天津日子板命を祖とし
もち斎(いつ)く氏族であったため、大和朝廷が苦手とした出雲御蔭大神(天津日子根の子)や三輪大神の神慮
を和める役をもしぱしぱ勤めたのである。
出雲系氏族には特に豊富に神話、伝説、歌謡が保存され、また驚くほど古詞に富んでいたが、額田部
族もよく古来の芸能と祭祀に通じ、剰(あまつさ)え一族の女性は神事に奉仕すべく必須の教養として咒術と詞章歌
謡の習熟に努めたのである。こういう空気に幼時より薫染せしめられた姫王が、旧記を暗(そら)んじ、咒歌を
つくり得たのも当然というべきだった。
だが、十市皇女には母とやや異なる資質が備わっていたらしい、いわば文芸の才に比し、一種凄絶な
誣術と天文に力倆をみせた。それを知るには半群の額田郷を去って、大三輪山の南方、忍坂川を遡った、
城島(しきしま)の忍坂(おさか)へ行かねばならない。
忍坂は初瀬と並んで古来葬地だった。また尾ある土蜘蛛が多く蟠まり住んだ事が伝えられ、事実、穴
居の先住者を想わせる無気味な大室屋(おおむろや)は欝然かっ湿潤の山のそこかしこに隠見し、東征途上の神武が、室
に住む土蜘蛛八十建(やそたける)を「うちてしやまむ」の歌とともに陰惨にたばかり戮(う)ったという伝説にふさわしい。
実にこういう土地に額田姫王の墓所と伝える古墳があり、姉鏡王女の墓も見出されるのは、単に忍坂

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には他にも皇族陵が多いという事で併せ説明できるものか、むしろこの姉妹が忍坂ないし近在に濃い縁
を結んでいたのではないかと想像される。
因みにこの忍坂の生根(いくね)神社というのは忍坂山の内、字(あざ)富山をそのまま神体としており、宝殿の設らえ
がない。故実は明らかでないが、思うに少彦名(すくなひこな)を祭っており、また「大同類聚方」に当社相伝の生根薬
と称するものを載せて、これを額田部氏の奏上したものだといい、額田部を「擬フラクハ氏ハ当社ノ神
職ナルベシ」と伝えている所を見ると、古来この忍坂には額田部族の一部が別れ住んでいたかと推定さ
れる、いやそんな迂遠な事でなく、額田姉妹は、むろん十市皇女も、土蜘蛛伝説に無気味に彩られたこ
の忍坂でこそ育ったのである。
十市の生まれた大化二年には、正月にすでに改新の詔宣があった。みずから入鹿を誅した中大兄は智
謀鎌足の懸命の奉仕を得て勢威頗る大きく、十市を産んで間もない額田姫王も娶(め)されて辞する術がなか
った。幼い十市はいつか母の姿の忍坂の里に見えぬ事を、苦い想い出として心に刻んだのである。
姫王の母は額田部湯坐連乙等(ゆえのむらじおと)の叔母、つまり十市皇女には乙等は生母の従兄に当たる。
乙等の死は無残であった。大化五年(六四九)春三月も果てよう或る日、首というものを血みどろに
欠いた乙等の屍が、忍坂の、十市らの住む家の前に鈍い音をひきずって投げ出された。幼い十市の眼に
事実だけが灼きついた。折から咲き溢れた藤の花ふさが眼に見ゆる限り山はらに揺らめいたかという美
しい記憶に重ねて、天も地も噛み砕かんぱかり歯を剥き、屍に縋って世を咀い罵る乙等の妻の形相を十
市は忘れない。
三歳の皇女はその後の数年を半ば狂った乙等の妻のもとで過ごさねばならなかった。あたかもたばか

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り戮(ころ)されたかの土蜘蛛らの怨霊を喚(よ)ぷ如く、少女の耳もとにありとある魔咒のことばを吹き入れて乙等
の妻は皇太子を呪咀した。八十建に八十膳夫(やそかしわで)を配し、膳夫には剣をはかせ、酒宴のたけなわに悉く建ら
を斬らせたのは他でもなく皇太子の祖である事を語る時、乙等の妻は、十市のからだを走る血をたぱか
られたただ土蜘蛛のものかの如くに訓えた。

忍坂(おさか)のおほむろやに ひとさはに きいりをり ひとさはに いりをりとも みつみつし 久米の
こが 頭椎(くぶつつい) 石椎(いしつつい)もち うちてしやまむ みつみつし 久米のこらが 頭椎 石椎もち いまうた
ば善らし

怨念に絡まれた旋律が今も忍坂人(おさかびと)の口の端に上り、十市はみずからもこの陰惨な歌を唱いながら、腰
の剣を抜き放った八十膳夫の猛々しさをよりも、地虫のように血に塗(まみ)れて倒れ伏す八十建らの無抵抗を
想った。首を喪った、さながら千年万年の昔から首というものを欠いていたような乙等の連(むらじ)のぷざまな、
死せる胴の形が、匂える藤の紫を揺らめく背景に転がされた、あの日一一。
十市は乙等の妻を促して忍坂の山の、むかで這い、蛇の走る幾つもの室屋をさえ幾度も訪れてみた。
打ち棄てられた死人の骨を我が手に拾って聳える大樟の太い幹をひしひし打ち鳴らしながら、神を寄せ
神のことばを語り、雷鳴とともに雲雨を遠く飛鳥の京に飛ばす術をも覚えた。中でも怪火を弄する業に
於てこの少女は一種卓越した感受性を備えていたという。
乙等の妻は美しい歌謡を教えなかった。母姫王のように巧みに歌詠むすぺを教えなかった。皇太子と

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その家門の栄光につながるどんな旧辞をも教えようとしなかった。斉明元年の冬、皇居飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)が焼
け落ち、あたかも民心の離反と朝廷の内紛を世人が推量する頃、一人忍坂山の峯に立って十市の瞳は冷
やかな金色(こんじき)を発したのである。
十二歳になった十市皇女が飛鳥朝へ宮人としての出仕を需められた時、乙等の妻はすでに窮死してい
た。死は、忍坂に住む悪しき霊たちにみずから肉を割き臓腑を抉って与えるかの如く、廃亡の凄まじい
事はさながら生ける腐爛であった。十市の出仕を人は真榊の如き乙女と見て悦こんだといわれるが、清
爽の覇気を面上にたたえたかく美しい皇女が、乙等の妻の最期を凝視してきた事実には誰も心をとめな
かった、いやただ一人、前年十市の父大海人皇子の妃となった■野皇女(うののへめみこ)、後の持統天皇だけが新参の従
妹の会釈に、鋭く敵意を見咎めて人にそれを語っている。この聡明かつ沈毅の義母は十市にわずか一歳
の年長に過きず、二人はついに親しく交わる事がなかった。
続く数年は朝廷に極めて多事であった。
斉明四年の有間皇子謀殺を中にしばしば阿部氏による蝦夷(えみし)、粛慎(みしはせ)討伐が行なわれたあと、六年(六六
〇)九月、百済が使を寄せて、唐と結んだ新羅の侵攻を愬えている。天皇と太子は十二月ついに百済救
援を決して難波に幸し、明けて七年正月には西征軍が難波を発った。十市皇女も境部族に保護されなが
ら行を倶にして天皇の朝倉宮に移り、この地でさまざまの変事を眼にしている。朝倉営造営には大舎人
と諸々の近侍の病み死ぬる者が続出した。六月には伊勢王が、七月には当の斉明天皇が死んだ。まさに
急死であった。
死者の東帰を守護し飛鳥川原での殯宮(あらきのみや)の儀を執り行なったのは大海人皇子であり、十市はこれに随っ

51

て大和へ戻った。皇太子は九州に残り天皇空位のまま素服を以て称制した。山積する軍務は太子に母市
の死を哀しむ余裕を与えず、まして不吉の前兆かと恐れる暇(いとま)もなかった。
一年、二年、執勘に戦われた新羅、唐との攻防は天智二年(六六三)八月、ついに白村江上の未曾有
の大敗により頓挫した。百済は全く潰え、三百年余の日本の半島経略は尽く無に帰した。
遠征軍の敗報は北九州の本営を震憾させ、遥か飛鳥の民心を萎縮動揺させた。中大兄は急ぎ飛鳥に還
って、今は揮身の勇を奮い内政充実を図らねばならなかった。新冠位二十六階を制し、氏(うじ)ノ上(かみ)を定めて
民部(かきべ)、家部(やかべ)を与えるなど、豪族間の勢力均衡と秩序を策する一方、対馬、壱岐、筑紫に防人(さきもり)、▲(とぶひ)を置い
て半島大陸の侵冠にも備えを怠らない。
実にそのような多忙の中で思いがけぬ事件は起きた。太子は突如大海人に十市皇女を娶(め)す意志のある
旨を告げたのである。
この時皇太子の王妃倭姫王(やまとのおおきみ)には皇子がなかった。
■野の母の造媛(みやつこひめ)、後の元明天皇安閑皇女(あへのひめみこ)の母の姪娘(めいのいらつめ)は、ともに粛清された石川麻呂の女(むすめ)で夙く死に、
他は概ね出自に於て数等劣っていた。しかも多くの皇女は殆ど大海人かその皇子の妃になっており、今、
即位前の太子が改めて大海人の長女を娶すのは、実にいかにも順当な事なのであった。
十市にとって余りにも忌わしいこの要請は、だが、事もなげにやがて沙汰やみとなっている。天智三
年(六六四)二月、空位の異常からなお脱却できない中大兄らは、声望と力量に於て無視しがたい大海
人皇子を前面に立て、太子実弟の名によって次々に新施策を宣布するという、内には実力者を抱え、外
には畿内東国の豪族を慰撫する機略を弄したのである。

(▲:火へん に 峰のつくり)(■:うののひめみこ の う)

52

十市は重ねて太子溺愛の皇子大友の妃に望まれた。

十一

「近江神宮へ詣って仏舎利でも拝んでくるさ」と半分は本気、だが笑って今昔を出た。十二時過ぎてい
た。「京都はええやろ」「ああ歩いて帰れるよ」と、これも毎度のいい草で黒田と別れたが、酔客とばか
りも限らぬ人の姿はまだまだ縄手辺りでは少なくなかった。
父も母も黙りこくって、まだ起きていた。
「すみません」と呟いて、着がえもせず、一時間ほども気を取り直して子どもたちの事など話した。い
つも聴き手は言葉ずくなだ。東京へ家を建てるかというもう何年ごしの話題になると、親はいかにもし
んどいという顔をして気弱に笑うばかりだ。押入れの板戸にぐったり凭れ、母はそんな話題からすこし
身を退くように、私が畳に置いた風呂敷を手にとって、じっと見ていた。
昔の勉強部屋へ戻ると、敷いてある寝床の上へ、私は、心もち容子よく風呂敷一枚をぱらっと拠げた。
半分は枕にかかって、椅麗な畳み皺をつくり、淡い紫に白波だつほどの小紋の美しさは、一瞬生きもの
のように眼の底で動いた。寝ながら、子どもっぽく、わざと重いちりちりしたあらしぼの表地を顔に被(き)
てみた。そのまま、手をのばして電灯を消した。
夢が一一幾つも、来た。
正月元旦の朝であった。空に五色の雲が渦巻くように湧き立ち、寅の方角だけに藍の透けたような青

53

空があった。みると一色の青い霧が地表を噴き出て苦痛のように漂いはじめた。一面の桜の中にでた。
桜は眼の前で真黒に変わり、西風が吹き雪が降った。物の怪のように頭を包んだ人の影がみな三重ねも
の綿のきぬを着て、無気味に「まひらく つのくれつれ をのへ たをらふく のりかりが みわたと
のりか」と唱った。
そして真夏であった。広い池の傍にいた。池の水がくさり、口が黒くて身の白い小虫が見渡す限りの
水面を蔽って行った。やがて水は血反吐に似て青黒く澱み、死んだ虫の屍はかさぶたのように盛り上が
った。だが肩を揺すって一瞬目を背けたあと池は真白に冴えた清水をまんまんとたたえ、もう冬を待つ
漣(さざなみ)に空を行く鳥の影が、悼になり鍵になって、奔った。
誰かがうしろで「近江の海」といった。女の声だった。振り向こうとしたのに首が動かない。そのう
ち「夕浪千鳥汝が鳴けば」と男の声が唱う。朗らかな声で女がくく、くくと笑った。「こころもしぬに」
「こころもしぬに」と女に男が和して、だが次が出ない。二人は苦にもしないでくっくっと笑っている
だけだ。我慢ができなくて、「古(いにしへ)思ほゆ」と大声で叫んだ。声は、日をはねかえす湖の波にまみれて自
分にもきこえない。哀しい。泣きながら振り向こうとしたがだめなのだ。すると右と左からあたたかに
人の頬ずりしてくる嬉しさ。「さ、坊や、もう一度よ」と女の声がいった。三人で同じ歌を今度は終い
まで唱った。眼を真直ぐうみづらに注ぎ、だが両横に父と母との若い肌を感じながら私は大声で唱った。
二人の顔を見る事はできなかった。
夢と知っていた。醒めてあと、夢がどれだけ涙を流させたかも私は知った。ひとりで恥ずかしく、床
の中で仰向いたまま明りとりに開けた天窓を見ていた。一尺四方のガラスの向うに早い朝の雲が風に乗

54

って去来した。襖がかすかに動いて、立ったまま母が覗いていた。
「なんや、うなされといやしたさかい」
「ああそうですか。夢見てたのかな」
顔をそばめ、わざと元気に寝返った。眼の前に、凝っと息をつめたような風呂敷が、あった一一。行
かねば、と腹が決まった。
大津まで一一の電車では何度も肩先から朝日が射した。空いていた。
滋賀里へは浜大津で下りた電車を一度駅の外へ出て、別の場所から坂本行きに乗り継がねばならない。
撒き水に日が落ち、踏みこむ足の裏を刺すようだった。まぶしさを避けるように私は駅前のおもちゃ
屋の店先へ寄って行った。
何といえぱよいのだろう、多分ただ手品と呼んでいたような気がするのだが、片面に七、八枚の、裏
にも同じに、写真が貼りつないであって、一枚一枚を畳みこむと一つかねに手に納まってしまう。ちょ
っとした小細工で展げ方によって表が出たり裏が出たり絵柄が変わるのだが、むかし私が遊んだのには
表に年若丸と弁慶だの、源義家だのの絵があり、かけ声かけて展げ直すと今度は楠公や川中島があらわ
れた。
古めかしいそんなおもちゃに近寄って覗いてみると、片面は近江八景を色刷で、裏はどうやら中国の
洞庭辺の黒白の写真が貼りつけてあるのだが、堅田の落雁と思しき一枚の、心を惹く湖の夕暮れに、黒
い影をひろげた竹垣のようなものが鏃のかたちに魚を誘い入れる■(えり)だと分かった。訳もなく、「近江の
湖は海ならず、西方浄土の池ぞかし」という唄が耳の奥に聴こえた。この冬、堅田の幻花庵の部屋で覚

(■:魚へん に 入)

55

えた今様の一節だ。
「■だあ、■だあ」と誰かが叫んでいた、幻花庵を出たあの朝。
舟が一、二艘ざわざわと漕ぎ出て行った。沖の朝日が波を燦めかせ、だが浜に好む私の足もとには、
まだひたひたと青銹びた湖の色が残っていた。鏃(やじり)になった■の、遠い切尖に吸いついた二艘の舟から「お
うい」と呼ふ声が揺れてきて、黒い影のようなものを水から引きあげていた。ああいう死に方もあるの
か。痛ましいという事を忘れて私は見ていた。あの日、男とも女とも知れぬ遠い水の中の死者を、私は
いつまでも羨んでさえいたではないか一一。
店の奥で急に人が動いた。慌てて「これを」と言った。言ってみて、子どもの土産にはいまさら何か
哀れだった。薄赤い紙に包まれたものをよそに見ながら、はじかれたように私はその場をのがれた。坂
本行きの電車が出ようとしていた。
浮かされた、心地に近江神宮と聴いて、反射的に私は電車を下りた。この先、南滋賀、滋賀里と駅の数
も数えていた。
せいらん
青巒(せいらん)に包まれた神宮のきらきらしい輪奐も、湖水をうかがう絵葉書向きの眺望も私を落ちつかせなか
った。崇福、梵釈二等遺跡の出土品が見たいがと人に訊いた。
教えられた受付けで景山春樹博士の解説「大津京趾」を買った。紛れない舎利容器一具の色刷が巻頭
に掲げてあった。すこし胸のつまる心地で歴史館へ入った。
暗い歴史館では夥しい時計が私を待っていた。なるほど大化の改新や藤原鎌足の名より早く、日本最
初の水時計に結びつけて覚えた天智天皇の名前であった。古びて廃れて形ばかりの時計たちはこそとも

(■:魚へん に 入  えり)

56

時を刻まず、死者というより無数の死体であった。
奥へ進み、ガラスケースにはずしんと重すぎる、大きな瓦を見つけた。花文方形軒瓦と解説に注され
た、二十五センチ四方もありそうな部厚なこの出土品は梵釈寺跡のものに違いなく、ゆうべ藤田教授が
よそに例を見ないといっていたように、這い下りる異形のサソリを彫(きざ)んだ、赤茶けた無気味な物だ。サ
ソリというのはやはり違って、多分蓮花文の異種とすべきなのだろうが、この軒瓦といい、併用された
らしい瓦当の大きさといい、こんな巨大な瓦を葺き並べた建物がどれほど頑丈なものだったか、「およ
そ推定に余りあり」と景山博士は書いている。
蓮花文の瓦は単弁のも素晴しい複弁のもあった。崇福寺建立を白鳳期と認識させる重要なきっかけに
なった■仏(せんぶつ)も見た。だが、私をいらいらさせたのは、見まわしたところおよそどの辺にも目ざす舎利容
器の見つからぬ事だった。
あの鈴や鏡の向うにあるのは古銭だな。だがそれさえ見たかった無文の銀銭ではなかった。古銭には
相違なく、皇朝十二銭などといわれ、新鋳ごとに奉賽されていた崇福寺としての貴重な歴史的証拠品で
はあるにしても、大問題を惹き起こした塔心礎に秘められていたものとは、まるで似つかぬものだ。頬
をふくらませて私は唸った。
遮蔽された外光を入口の方に淡く感じながら、解説を読んだ。色刷の舎利容器は藤田先生の酒席の描
写よりまだ華麗だった。
なぜ、これが此処にないのか。この本にも近江神宮蔵と明記されているのに。
頁をはぐって無文銀銭の写真を見た。色刷ではないが間違いなかった。妻の財布に納まったままのあ

(■仏(せんぶつ) ■:土へん+専の本字)

57

の銀貨とまさしく一つのものと、粗末な黝い写真づらでもはっきり分かる。一枚、二枚、三枚。写真を
指でおさえながら私は勘定した。たしかに十一枚一一。

十二

夢ではなかった。私は寝入れず、ものを想いつづけていたし、枕もとの灯も消してなかった。眼をつ
ぶると奇妙に迫ってくる情念があり、眼をあけると肩さきへ寒さがきた。
幻花(げんげ)庵の夜ふけ一一夢ではなく、私は床の中から激しく鳴り響くピアノの音を聴いた。鍵盤の上を、
血塗れの指という指がのたうつような執拗な速さで、音は風に流れては魂消えて行った。雪見障子の外
側に重ねて閉てた杉の板戸を叩くように、すぐそこまで来てピアノの音は消えて行った。
ものの三十分くらい、それよりは長くなくて音は急にひそとして聴こえなくなった。十一時を過ぎて
いた。もう一度、もう一度と、訳もなく耳をすませて頬杖を突いていたが、それきりだった。尼さんな
かなかやるなと思った。
何で出家したんだろう。大学へやるほどの娘をどんな事情で産んだのだろう。頬杖の肘が疲れるまで
私は俯向いてそんな余計事を想い、その想いがよくぬくまった炬燵にあたためられるうちには、かすか
だった悩ましさのような気もちが、幻のまま或る対象の輪郭を眼の前に描き出すようだ。
パチッと電灯の紐をひいた。闇がぬめりと私を撫でた。頬杖を倒すと顎から枕へ埋もれ、暗い夢でも
見たいと私は身をもがいた。軒ちかい何かの木の枝が、たん、たんと雨戸を叩いた。

58

大友は年は十市に一歳若く、真榊のような皇女の夫にふさわしい、端正な容貌と温雅な教養を備えて
いた。しかし一部には早くも高慢かといわれていた美しいこの乙女は、この結婚をも冷淡に拒絶した、
と「故事拾遺」は臆測し、剰え次のような妄誕を報じている、即ち、ついにやむなく大友皇子に娶(め)され
た夜、皇女は忽然として大友のもとを脱け出た。
半刻ばかりして戻った皇女は折からの豪雨に全身滝のような雫を垂らしたままであったが、何よりも
異様なのは十市のからだにたちこめた耐えがたい腐臭であった。大友は露わに不快を示してからだを清
めてくるよう命じたけれど頑なに口を噤んで新婦は褥に坐して動かなかったので、堪りかねて大友は去
り、夫婦女会の事はその後二人に絶えてなかったと謂うのである。しかも皇女は次の年葛野王(かどののおおきみ)を産ん
でいる。それをしも「故事拾遺」は十市が飛鳥の淵瀬に仰臥し、雨中の闇に黒き事墨の如く大いさ牛に
似た妖怪と交わって懐妊したのだと妄想を敢てしている。
「故事拾遺」の妄想はいかにも妄想というに過ぎない。しかし、こうも謂わしめた真相に就いては当時
比較的一般に知られていたので、「日本霊異記」および「湖国志料」に伝えるところを見ると、壬申の
乱に敗れた大友皇子の頸が不破宮の大海人のもとへ届いた時、すでに父の陣中に保護されていた十市は、
走り出て哭してこれを抱いたと謂っている。しかもそれが天智でなく大友の頸と知ると、忽ち拠って顧
みず、「霊異記」は「狂歟」と記し、「志料」も「ソレ狂ヘルカ」と何れも皇女の尋常でなかった事を謂
わんとしている。
葛野王を天智の子とする執拗な憶説がもし事実なら、大友の娶すに先立ち天智の強いて■(おか)せる所とい
うべく、先の錯乱とも首尾相応してその間二人の愛憎の深刻さは推量に余りがある。もはや青い一対の

(■:女を縦に二つ並べて辺とし、つくりは干)

59

盞をめぐる争いの如き殆ど些事と思われるが、なお青盞事件にも一層の波乱をみた事は、かの草薙剣が
盗まれた後に辿り得るのである。
翌天智の八年(六六九)、内臣(うちのおみ)鎌足が病床に就いた。秋にはその病褥に近く凄まじい霹靂があり、十
しとね
月十日、出ずるには車を同じくして騎を竝べ、入りては即ち茵(しとね)を接し膝をまじえた股肱の臣は逝去した。
天智天皇の苦境は漸く蔽い難かった。
表むき近江大津京に風雅の詩宴は頻りであった。また着々と、新しい法令の整備や、造籍、班田の実
現にも力が注がれていた。時を得顔に帰化人の誰彼が物の師と迎えられ、経典は貴族の子弟の争って書
写し念誦(ねんじゅ)する所となっていた。大友皇子が父天皇の愛をうけ、一際抽ん出た漢才を誇り得たのもまさし
くこのような雰囲気に於てであり、所生(しょしょう)の低さはあれ、皇太弟大海人(おおしあま)を凌ぐ勢威は日ましにこの若い皇
子の身辺に、明るい色を添えていた。
しかし、大和、河内、紀伊へかけて、また伊勢、美濃、駿河など東国にも、近江大津の唐ぶりを悦こ
ばず、古代の氏族政治に郷愁以上の望みをもちつづける者の多い事が知られていた。今は日嗣(ひつぎ)の太子(みこ)の
大海人は、太子ゆえに日々に気疎い兄天智の心中を、苦々しく忖度(そんたく)しなければならなかった。すでに大
海人は、しばしばかつ秘かに、舎人(とねり)らを遣って時勢の趨く所を旧畿内の豪族の表情に読もうとしていた。
その挙措はいよいよ恭しく、いよいよ潤達で、好む所は一歩も二歩も時好に遅れて見えた。
鎌足の死は、大化以来天皇と皇太弟とを結んだ紐帯の切断を意味した。天皇の意をうけて大友をえら
ぷか、大海人をえらぷか。もはや全宮廷の躊躇を超えて情勢は動いていた。しかも、天皇は健康を害し
つつあったのである。

60

鎌足を葬った直後の十二月、大津京は火を失して宮殿の半ばを焼いた。同じ頃、斑鳩(いかるが)の法隆寺が一塁
一堂もあまさず回禄している。
九年正月天皇は殊さらに朝廷を恭うべき事を詔し、またまた誣妄や妖偽を禁じねぱならなかった。そ
れぱかりか、湖東の匱■野(ひさの)に行幸(みゆき)して新たな宮地を物色するという事までしている。天皇の孤独は濃い
ため息のように、払うすべがなかった。天皇は、宮殿や大寺の火災が女の怨みに関わるという故事を知
りながら、この春、旧崇福寺趾に絶えない御井(みい)の清水に赴いて天地八百万あめつちやおよろず)の神の座を敷き、幣帛を献じ
ている。病いはだが却ってあつしさを増した。
六月になると大津の柳ヶ崎に亀が這い上がった。亀の背には日を貫いて申の一字が書かれてあり、ま
がまがしくも黄と黒との斑らであった。
天皇は崇福寺の智祥を呼んで、弱まる心を愬え、智祥は草薙剣を熱田社に戻されるよう進言したので
ある。天皇はこの出雲より獲たはずの剣の事を忘れていた。沙門道行の事以来、剣は宮中に安置されて
いて殊に齋(いつ)き祀る業もなかった。
いささか心晴れた天智天皇は十年(六七一)春正月、敢然と大友皇子を太政大臣に任じた。政治の表
向きから着々と皇太弟は疎外され、宣命、詔勅、饗宴に大友は華々しく一の位を占めはじめた。額田姫
王も、おそらく十市皇女も、もう久しく天皇に近侍する機会を失なっていた。
天皇の復讐はさらに小さなしかも決定的な仕上げを得て、漸く挫折した。
この年五月五日、宮中に田▲(たまい)を見たあと天皇は、大海人皇子、大友皇子らを率いて大津の浜に設けた
酒楼に入り、宴さなか宅子娘(やかこのいらつめ)を席近くに呼んだのである。宅子は伊賀国の采女(うねめ)で大友皇子を産み、な

(■:しんにゅう に 乍 ▲:にんべん に 舞)

61

お少女に似た楚々とした容貌、姿態を喪わぬ一種妖しい美女であったが、数多い夫人の中では出自に於
て最も劣っていた。
天皇はおもむろに顧みて、とある箱の中からとり出した物を、宅子に持たせた。それこそはかの青瓷
の、秘かにこの世に留め残されたただ一つの盞であった。天皇はみるみる容赦なく酒をみたして飲めよ
と命じ、惑う所なく皇子の母は朱唇を青玉に触れ、美酒を口中に傾けた。次で大友皇子に酒を賜い、三
度び重ねしめてから今度は天皇が白い手で酒盃を乾した。
満座声なく、天皇はつと立って欄干に進み、次の瞬間、一閃して盞は層々たる碧の 彼方に散った。
群魚は水を覆うて棲の下に寄り、銀鱗は初夏の日光に射られ燦爛と灼(かがや)いたのである。
天皇はついに十市皇女に一瞥もくれなかった。
天皇の病勢はこの後に急に頻って、夏過ぎ秋になってもいささかも回復を見なかった。
大海人皇子の出家と吉野退隠はこの中であたかも一場の佳話の如く、しかし、大海人には虎口を脱し
た思いがあり、大友には虎を野に放った憾(うら)みを遺したのである。
錯乱した十市皇女の最期を、だが、誰も語らない。一書にわずかに、近江宮を捨て不破の宮を去って
飛鳥に向かう大海人が今まさに出でんとした時、陣中卒然と十市の薨じた記事を遺すぱかりであるのは、
殆ど何も語らぬに等しい。十市がさながら馳せて戻って長等の御井にみずから身を呑まれた事を、知ら
ぬからであろうか一一。
みな夢一一であった。当来寺畔一泊の夢に私は小高い尾根に誘われて、一本の松にそれらを聴いてい
た。不思議の物語を語りおわって松は身をもがく影となった。根づたいに一瞬光って何かが消えたか、

62

人のうずくまるか。そう想う眼に、すらりと、双鐶(もろわ)の髻(たぶさ)に花鈿(かでん)を挿し、纐纈(こうけち)の衣(きぬ)に紗の裙(も)をつけ、翳(さしは)の

団扇を胸に添えた立ち姿が絡み寄った。錦の背子(からぎぬ)を着、頒布(ひれ)をかけたそんな優しい粧いの人はだが波に

揉まれるかすみより影淡く、倭文(しずり)の帯に太刀を佩いた男の影ににじみ合い、山の音の烈しさに消えて行
く。思わず腰を浮かせる眼の前で残るもとの一本松には静かに日光がふりそそいだ一一か、と思う思う、
何もみな我からあやかしの夢消え、心に残ったのは渇くほどの物足りなさ、人恋しさであった。

十三

景山博士の無文銀銭を語る文章に、事件の匂いは何もなかった。「直径は三糎内外、厚さ三粍弱、重
さ八瓦内外(但し一枚は大型)である。みな中央に小孔があり、不整形な銀片が附着し、刻印らしいも
のもみえる。一一出土の状態は舎利容器外筥の台脚底面に附着していたから、まず納入孔の底にこの銀
銭を敷き並べ、この上に舎利容器一具を納めていた事がわかる」とあり、容器には木の外宮があっただ
ろうと推量されている。
たしかに十一枚一一。
だが説明のはじめに容器一具の「伴出物」として列挙されている所には金銅唐草文貼付鉄鏡一面、青
銅鈴二箇、紫水晶粒二箇などに先立って、明確に「無文銀銭十二枚」とあるではないか。誤植とは思え
ない冷静な記事は、一言も写真との数の齟齬に触れていない。どこにある…のだ。
「ご存じのはずよ」

63

何という声を私は出したのだろう、脅えた叫びは暫くのあいだ無数の死時計を陰々と鳴らした。忘れ
てきた、いや買わずにきたはずのあの浜大津で見た粗末なおもちゃ包みが優しい人指しゆぴに吊され、
黙って突き出されていた。そして奇妙な微笑み。千切れんばかり私は背広のボタンを鷲掴みにして、夢
中で引っぱっていた。
「東京へ行っているのよ、みな」
「東京」
「ええ上野の博物館」
私は頷いた。
「迪子さん、おげんき」
「一一」
「大事にしていて下さるかしら、あれ」
「な、何を」
愉快そうに返事もしないでほっほっほっと白い服の少女は笑った。それからすうっと寄ってきてガラ
スの上へ「お忘れものよ」と置いた。
「君は誰」
「まあ」
またおかしそうにほっほっと笑って「まり子」と名告った。私は逃げようとした。
「待って」

64

待てるものか。
出会いがしらに年かさな女の人を突き飛ぱしそうになった。まぱゆいあずき小紋に脚が吊った。力い
っぱい持った風呂敷を拠げた。物に突き当たって膝から落ちながら、無数の色をちりばめた鱗の波へ、
しぷきをあげて我が身を躍らせたと思った。冷たい波が体に浸みわたり、眼をあいて、私は輝く色の乱
舞の底に、真青の、ちいさな秘色のさかずきを把もうと思った。手の先を先を、さかずきは漂うものに
なってすり抜けた。焦って吐き出す自分の息が、そのまま暗い汚れになって視野を渦巻くやみのとぐろ
に変えてしまう。鈍重に、だが必死に両手を空に揺すった一一。
ものの隙(ひま)を洩れる蒸気のように急に辺りが薄澄んで、そして、定まる視線が捉え一一たのは木立に囲
まれて立つ「崇福寺旧廃祉」の小高い碑だった。むかし妻と腰をかけキスした金堂趾のまるい礎の上に、
私はひとり坐っていたのである。
咄嵯に時計を見た。十一時半を過ぎていた。
浜大津からこちら、惑いがちにも結局思い通りにここまで来たのだと納得したかった。
そういえば旧趾を探し探して、ずいぶん山道を上り下りしてきた気がする。靴も汚れ、足の裏も痛ん
でいる。
山道へかかる途中、荒れた小さな堂から背をはみ出した丈高な石の弥勒仏も見てきたような、湊川の
わきに郵便受けと牛乳受けを出して、住まいはずっと山はらにあるそんな農家を見てきたような、それ
ばかりか近江神宮の石段を下りると脇参道の青もみじを潜り、いきなり菜種と若い麦の田中道をせっせ
と山裾づたいに歩いたような、一度二度は土地の人に崇福寺への道を訊いてきたような。

65

だが、あの婦人(ひと)に返すべき風呂敷がなかった。手に触れなかったはずのおもちゃ包みは、まり子と名
店った娘が眼の前へぷらさげたと同じ薄赤い包み紙で、ちゃんと自分の人さし指に絡まっている。解説
「大津京趾」は腋にはさんでいた一一。
あきらめて、おもちゃはポケットに入れた。むっとポケットが膨らんだ。
遺跡は、十年余の昔から見れば見違える木々の繁りで、殆ど青黝い巨きな室(むろ)であった。訳もなく疲れ
にひしがれて、私は顔を膝小僧に伏せ深い息をはいてみたが、空腹と、いっぱいかいた汗の冷えでおち
つかず、またきょときよとと遺跡の内を眺め眺めした。
檜皮葺(ひはだぶ)き五間の金堂だったという。今いるこの場所がその土壇で、うしろの石碑の辺からは沢山の古
銭が出た。講堂もずく近くに南面して建っていた。となりには経蔵があった。はびこった木立の隙から
は湖が見えたのである。真直ぐ唐崎の松が見え、三上山が見え、穴太(あのう)の里も、むろんいらかを並べた大
津の宮も見えたと本の解説に書かれていた。
そうか、あの枝を交した樹心のあいだを潜り抜けて、あの子はあの碑のうしろへ憑(よ)っていたのだ、も
うけっこうだ。
私は滑り台に似た急な坂をかけ下りた、そして尾根を渡った、木々の紛れを手で払い払いながら。
塔趾もおよそ跡かたなく草むぐらと松、杉の若木に蔽い籠められていた。
たしかに昔見た心礎を沈めた岩窟も、下草の這いまつわったただの盛土と変わり果て、上には姿の美
しい松が一本すらっと立っている。
それにしても妻と来た時、あんなにも厳めしく柵を構えて日当りの下に露われていた心礎であったの

66

は、ひょっとしてあれこそ夢まぼろしのそもそもはじめなのではないのか、なるほどさほども由緒ある
遺跡なら、発掘の用を終れば早々に旧に復して土中に埋める方が穏当のはずだと、今さらむらむら甦え
るあの時のまりいちゃんといった子のふしぎな微笑に、私は脅えた。
滝の音がする。とめどなく岩を叩く水の音を遠くに聴きとめ、
「松よ」
呼びかけてみて、私はやはり照れた。つづく言葉はなかった。当来寺畔一泊の暁の夢に見た松をよく
は覚えていない。それにもかかわらず、急に眼もうるみ、私は身を固くした。松が女の立ち姿に見え、
男とも見えた。だが丈高く素直に伸びた、やはり若木の松だった。
「松よ」
今度は、すこし身振りもまぜて言ってみた。固くした肩さきから疲れがきた。私はその場に坐ってし
まった。

訳もなく、幻花庵のあの朝、夢醒めてからも私は動顛していた。
壬申の乱直後に十市皇女を「狂ヘルカ」と見て伝えた記録は一、二に止まらないが、但し決して地に
笹をひき、白衣に髪をとき流したような脆弱(ひよわ)な狂女ではなかった。立ちながら青竹を切り下げたような
鋭い表情がぎらりと冴え、その思い上がった言外の狂気が眉宇を漂うと見て時の人は畏れたのである。
それを聴くと私は額田部の乙等(おと)の妻を想い出す。

67

だが、夢の果てに皇女が疾駆して不破をのがれ、長等の旧崇福寺跡の御井(みい)の池に投じたとはあろう事
か。「日本書紀」にそのような記載はない。史実的にも十市皇女は父天武帝の愛に包まれて飛鳥に生き

のび、伊勢神宮に公の使に立った事もあった。吹黄刀自(ふきのとじ)の「常にもがもな常処女(とこをとめ)にて」という有名な歌

は万葉集に遺されて、皇女の異常な清颯の気稟(きひん)を、今もありありと喚び醒ます。
それどころか「日本書紀」によれば十市皇女の最期は天武記下巻の七年(六七八)に明記され、しか
し、それはまたこの皇女らしくあまりにも心惹く死にようだった。
即ちその年の春過ぎて、朝廷は天神地祇を祀るため臨時の大祓(おおはらえ)をこころみた。天皇みずからの神事で
あり、飛鳥を東へ出た倉梯(くらはし)の河上には斎宮の用意がしてあった。そして夏四月、吉日をトしてその早暁
今まさに警蹕(けいひつ)の声ものものしく「百寮列(つかさつかさつら)を成し、乗与蓋命(きみおほみかさめ)して、以(も)て未(いま)だ出行(おわ)しますに及(いた)らざるに、
にわかおこλ1りうちみうろほとど
十市皇女、卒然(にわか)に病発(おこ)りて、宮中(みやのうち)に薨(みう)せぬ」と書紀は謂っている。むろん▲簿(ろぼ)停(とど)まって行事は中止され、
神祇を祀る事は沙汰やみとなった。天皇は哀傷のあまり皇女の屍を当時造営の新宮にとどめていたが、
折から猛烈な霹靂に、一瞬にして悉く飛散炎上、葬すべき遺体はついに見出し得なかったのである。
十市の死をめぐっては、ここでも包み焼きの一件がわざわいして、種々の取沙汰がされており、後の
史家には夫大友を裏切り最期を倶にしなかった事を散々筆誅して、三輪の神の崇りに遭ったなどという
者もあったが、いかにも笑止、と私は思っていた。
ところが幻花庵の夢に、十市皇女を想像より遙かに艶めいた幻に見たあと、神の崇りはさて措いても、
何かごの時異常な衝撃がたぐいも稀なこの美少女(といってみたい)を瞬時に老い衰えさせたのか、と
考えてみるようになった。私はあの浦島太郎の事を想像した。

(▲:占いの□のなかに※)

68

柳田国男氏は著述の中で、祭咒の巫女に触れながら、或る老婆の聞書きで、

鹿島さまのおめかけになると、いつ迄も十七の姿で居たってなア。
それで鹿島様からおひまが出ると、急に五十にも六十にもなって、
歯がすっかりかけたり白髪になったりしたってなア。

という事をいっている。仮りにも大友皇子の妃として表むき葛野上を儲けた十市皇女を、伊勢神宮に送
る途中、「河上のゆついわむらに草むさず」と謡って、いつまでもいつまでも処女(おとめ)でいらして下さいと
吹黄刀自が叫ぶように呼びかけた歌は、的確に皇女が常世人(とこよびと)として神に仕えた巫女であった事を語って
いる事、またそうでなければ理解に耐えない奇妙な響きをもつ事を、私は考えていたのである。
十市の身の上に一瞬のうちに鹿島さまのおひまとも、玉手箱のけむりともいうべき変事が生じた時、
この常処女は天人の五衰の如く急激に死なねばならぬ崩壊のたねを宿していたのかも知れない。
私には変の何事かを想像もできない。しかし、何となくさきの十市の逸狂といい、急の死に忽ち五体
を炎と散じた霹靂の凄まじさといい、神の忌垣(いがき)を出ようともがいた一人の生身な女の匂いが、なつかし
く漂う気がしてならない。そして、どんな鑑賞書にも若い皇女を敬虔に讃えたといわれる経歴不明の老
いた侍女が、実はあの乙等(おと)の妻ほども峻(けわ)しく十市をとり籠めようとする、ごく特殊な巫女の一人ではな
かったかと想像されると、この歌はひょっとして、皇祖の宮居である伊勢へ参る事を必死に阻むほどの
歌いかけのような気がせぬでもないのである。

69

十四

どんな顔を私はしていたのか、咲さんは朝食を運び入れながら、「よう睡れませなんだか」と訊いた。
瞬昧にわらって、
「尼さん、ピアノ凄く巧いんだね」
「うまいて、おじゅっさんのは、ようやっと音がするくらいなもんやが」
冗談だと思った。しかし尼さんのピアノというのは娘さんの傍で聴くのが楽しみ程度で、自分で弾く
といってもせいぜい学校で教える唱歌くらいなのだそうだ。それにゆうべは遅くまで来客が居坐ってい
て「下へは行かれなんだようですが」という。
その客が何時頃帰ったか、あれを私が聴いたのはその後だったろうかと心の中では詮索しながら、い
ややはりピアノというよりは夢の間の松に夜風か木魂が呼んだのかと想ううちにも、硝子越しに、うす
うすと日のさす朝の庭を、幾羽もの鳥がげんきに来て遊ぶのが見えた。
半月(はんげつ)の盆に、赤絵の丼でむし寿司は朝からすこし重苦しかったが、尼さんの自慢で、ゆうぺからの用
意と聴けば、木の箸をぴんと割る感触にも、旅先の朝食では経験した事のないものがまじった。綿糸海
老、みつば、穴子、いか、はじかみ、生姜、椎茸、赤貝と男らしくもなく数えあげて、木の芽を浮かした若竹の吸物に唇(くち)を添える頃には、幻花庵の一夜事なしという、心地であった。
幻花庵と書いたマッチをポケットに入れた。
送って出た咲さんに礼をいいながら時計を見た。八時を過ぎたばかり、早いお立ちに違いなかったが、

70

休みも今日一日で、明日は東京に帰ると思うとゆっくりもできなかった。
すぐうしろから六十年輩の男が出てきた。からだつきもだらしなく、背広姿がゆるんでいた。用心深
く私の顔を見て暗い眼をした。男が振り向くと、二十七、八の女が編みの袋に風呂敷包みや紙包みを入
れ、ひきずるようにそろそろとついて出てきた。妊娠していた。女は私の方を見なかったが、からだつ
きから、ゆうべ手洗いの傍にいた人と知れた。ひよっとして、あの時つわっていたのかと想像したが、
服の上から分かるくらいだからつわりの時期とは違うかもしれない。
揃えられた男の靴は黒い革の、こてこて硬ばった感じだった。女靴の方は何の飾りもしまりもない爪
先の拡がった低いものだった。二足とも腹に乾いた土がこびりついていて、いわれなく二人が夫婦、親
子でない事を私は察した。
式台の上の破風に「当来」の扁額が懸けてあるのもその時に見た。乾き切った板にかすかに緑青がの
こっていた。肉を盛りあげて輪郭を彫った古体の文字のかたちが古びもせず立派だった。
二人づれの後になって山を下りた。二人は改めて当来寺の方へ折れて行った。曲り角に立ち停まって、
見送る私の耳に届いた女の声がかすれていた。頭の中で補足して、私はそれが腹の子を産みたいといっ
たように合点した。
男の揺れる肩幅を一瞬見据えた。憎しみのようなものがどっと来たが、「仕様がないなあ」と弦いた
私の声はだが我ながら気弱に口の中で消えていた。老人の腕が女の背へ動いているのを見た。
そのあとだった、江差鉄道の時間待ちに浜まで出て、人死にに行きあったのは。
「■だあ」と呼ぱわっている声が、人けの少ない朝早の水辺に澄んで流れ、私はそう唐突でなく別れて

(■:魚へん に 入  えり)

71

きたさっきの二人を想い浮かべた。死人は一人だったけれど、頭の中ではあの二人が水に入ってこそ辻
棲も合う、バランスもとれるというような、揺らめくほどの感想が尾を曳いて残っていて、それは自分
に向かっても沢山説明のいる思い方だったが、風に吹かれて浜砂を踏んで立っているのは、寒いよりも、
もっと何だか寂しかった。ずぶずぶと水から引きあげられる遠い濃い影を見つめ、あんな死に方もある
かと思う私は、殆ど湖色に魅入られた一箇の犠(にえ)に近かった。
「常楽我浄の風吹けば、七宝蓮華の波ぞ立っ」と口ずさみ、だが事もなげに私は大津へ戻る電車を待っ
た。自分ってものが頼りない分からないものに感じられ、それにももうどんなに馴れてしまった事かと、
私は眉をひくひくさせて、きつい眼つきで堅田という駅の名前を見据えた。あの女は老人の子を産むの
だろうか、産まれる子どもの事を、考えているのだろうか。
電車に乗りこむと、うしろから押すように幻花庵の尼さんが追いついてきた。驚いた。「学校ですか」
と訊いたが、日曜日だった。「滋賀里の妹の所へちょっと用事がございまして」と、尼さんは弾ませた
息もすぐひそめ、上品な口をきいた。まさか崇福寺ではと冗談をいうと、娘みたいに尼さんは笑った。
並んで腰をかけた。数えるほどしか乗客がなかった。私は当来寺に十市内親王の伝説は何か残ってい
ないかと質問した。ないと思うと返事をしてから、尼さんは長等下の弘文御陵の近くに、誰のと分から
ない古い塚が十市の墓かといわれていると教えてくれた。
「それは凄い。今もありますか」
「一一」
「それは見たいなあ。日本書紀には、赤穂に葬ると書いてますね。奈良市内に赤穂神社があったとも古

72
い記録に出ているそうですが、どうだか」
「十市皇女を小説にお書きになるのですか」
「別にそうと決めている訳じゃないんですが、額田姫王より興味はもっています」
「むかしから一一」
「ええむかしからです」
鸚鵡がえしにいったが、むかしとは何時の事かと一瞬思い惑った。
「弘文御陵の傍というのは、やっぱり御夫婦だからというので後の人が」
「いいえ傍と申しましても新羅明神の奥で、離れて居ります」
「それは、旧崇福寺のあと、ですね」
「はい。よくご存じですね」
「池は」
「お池、ございます今も。お出でになりましたか」
「いいえ」
「では、ぜひ行らっしゃるとよろしいですね。花の頃にでも」そして「今度みえた時は御案内しましょ
う」と尼さんは気軽な事をいった。
遅まきながら名刺を預け、出田道妙と尼さんの名も聴いた。幻花庵の在所も高島郡堅田町字禁野(しめの)の五
と手帳に書きとめて、私たちは江若鉄道の滋賀という駅で別れた。窓の外で青い頭をさげていた道妙尼
が綺麗な紫の風呂敷包みを胸に抱いているのが、人柄を優しく、若く見せた。堅田から湖を真向うに越

73

えた長浜が、はま縮緬で名高い事などを私は想い出した。
東京へ帰ってから、私は一度ならず道妙尼へ手紙を書きたいと思い思い、結局書かず仕舞だった。当
来寺と道行の事は何ひとつ確かめて来れなかったのだ。だが、奇妙に、そんな手紙はあてどないものに
終りそうな気がしていた。幻花庵も、人死にのあった■の風景も頭の隅で影薄めがちで、徒らに私の眼
には、あの妊娠していた女の夜着の尻に咲いた、大きな青い芙蓉の花が残っていた。
やはり産むだろうか、産むなら無事でと、それこそおよそ余計な感傷が私を何度か苦笑させた一一。

すたすたという言葉が唇に浮かぷほど私は崇福寺からの細い下(くだ)り路(じ)を無感動に急いだ。放心でもなか
った証拠に、日かげに白いあれ肌の石の弥勒をもう一度見た。朱いちいさな葉を茂らせた木に胸乳の辺
をなぶらせた仏の顔には、つよい光線が翳を生んでいて、たしかに私はそれをさっき見て通った。岐れ
道を守る野の仏の、雨風にそこなわれたまま花の添えてあるのも、哀れに見て過ぎた記憶はすぐ甦えっ
た。ちいさな川にちいさな橋がかかり、そのあとさきに木を曳くらしい轍の跡の残るのも覚えていた。
山路の果てる所に立ち停まり、夢とうつつに親の家を惑い出てきた今朝からの振舞を、もう道化に見
直す気もちが強かった。すぐそこに日の当たる四つ角があり、角の一つに柿の木が若葉を翳らせていた
はずだ、その角を折れて来ながら、坂の向うに黝い山ふところをみて人に崇福寺への道を問うたのも、
今は確かだといい切れる。だが、手品で膨らんだポケットの中身だけが、納得の埓をはみ出て一一。
四つ角はすぐだった。角に向うむきに、十七、八か、女の子が立っていた。二っとはならない男の児

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が頑是なくまわりをうろうろしていた。ちいさな自動車を手にもっているらしく、それはいきなり私に
息子の建日子(たけひこ)を想い出させて笑えた。娘は振りむいた。低いゲタをはいて、ワンピースには朱い花の色
があって。それでまっすぐ私を見た。まりい(3字傍点)ちゃん一一か。
仰山な私の容子が警戒させたらしく、ふと道を避け娘は訝しげな若々しい顔をした。
「失礼ですが」
男の児へも微笑いかけてから私は滋賀里の駅への道順を訊いてみた、崇福寺から来たともつけ加えて。
「崇福寺一一」とおうむ返しに低声(こごえ)に呟きながら、尋常な私の言葉づかいに安心したのか娘は子どもの
肩に手を置き、あいた手を使って簡潔な教え方をした。
「あの、この辺、滋賀里だと思うんですが、王さんという家をあなたご存じないですか」
「オウ、さんですか」
「ええ、王子さまの王。中国人かも」
「あア、それやったら中国の人やないですよ。きっとおおぎみ(4字傍点)さんの事やと思いますけど」
「一一」
「おおぎみさんやったら、ホラ」あっちと指さそうとした時、男の児がダダダと声をつくって自動車を
宙に傾けかけ出した。娘は挙げた指も中途で慌ててあとを追い、角をまがって大きな家へ二人ともずぷ
ずぷと隠れてしまった。
苦笑いして歩を運んだが、わざわざ声をかけるのもさてためらわれ、だが是非知りたい、まあまた誰
かにと気をとり直した眼に、表札が見えた。家族ぐるみに名を連ねて、姓は大きく山田(2字傍点)だが、間違いな

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く中にはっきり鞠子、の名も。

十五

まりいちゃんがいたのだ。
何しろ笑えた、事はみな散文的だった。王さんならあっちと宙に浮かべた指の先も、見れば柿の木ご
しのただ山なみだった。かけるように、教えられた坂道を私は急いだ。
京阪滋賀里駅を見つけておいてから、線路わきの。パン屋でコカコーラを、次に牛乳二本を流しこんだ。
それから慌てて菓子。ハンを二つもらった。すこし照れてまた牛乳を頼むと、店の主婦は笑い出した。小
銭をつりに出しながら、どこから来たかと訊く。
「よう見つけられましたな」
「まあね」
「それで、何ぞありましたのか。まさかお金も落ちとりゃしませんやろが草蓬々で」
主婦は気安くげらげら笑った。
「おばさん、あそこ掘り返した時分のこと知ってる」
「こどもやったしわたしはよう知りませんけどな。この上の方の人が何(なン)や、仰山物掘り出したいうて」
「へえ。それで」
「それでて、警察が来だそうですが」

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「ね、ね。その人の苗字知りませんか。王さんとかじゃない」
「王さんは違いますがな」と笑って、「苗字な一一。ええと苗字が山田さんいうたでっしゃろか」
一一男の子を追ってたぷん鞠子というあの娘が入って行ったのは農家でなかった。かといって近所の
なみの家とはよほど違っていた。門のすぐ奥は、太い竹を丈高に棕櫚縄で編んだ塀の前に笹と木賊を栽
え、地に這うように縞めの石が背をまるめていた。
「おばさん、長等ってどこ」
パン屋の主婦はこの電車で四つめが別所という駅で、駅前が大津市役所、市役所のまうしろの山が長
等山だと教えてくれた。誰とかの御陵があるといった。
「御陵。ほんと」
「はあ、あの辺、御陵町ですで」
主婦はもううるさそうだった。
すぐ奥に、浜大津で買ってきたのと少しも違わぬ手品が、三つ四つ吊してあった。いかにも子ども相
手のけばけばしい色刷の八景がもう安っぽく、反射的に、藤田教授が「上等」と言ってほめてくれたあ
の免疫の本のゆうぺの事を私は想い出した。今晩には乗るはずの汽車の時間も急に気になった。
別所の近くに皇子山という名の体育館やグラウンドがあった。山上町一と電柱の青い町名標示を右に
見て、市役所の奥の森へつづく坂道を上った。弘文天皇の長等山前(やまざき)御陵とあるからは、やはり皇子は大
友皇子かと想いながら、大きな柳の傍を先細りの道へ折れて行った。
山手の森の中にと予想していた御陵は、竹やぶの切れめから町側へ、一、二段低く鍵の手に曲がった

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小径の奥にあった。木竹を伐ってはいけないなど、立札も型通りで、出前(やまざき)という御陵の名も大友敗死と
書いた「日本書紀」そのままの地名を採っていた。
十市皇女の墓は。
弘文陵の入口に立ち停まり、突き返すように其処に窮まった道のすぐ山手逆に二、三段も高く、意表
を衝いて大きな石の鳥居のあるのを私は見上げた。鳥居の内は、およそ四、五十メートルもの、一面春
草に蔽われたプールほどの草野で、倒れかかった松の向うに、長等の尾根が突兀(とツこつ)と日に当たって透けて
見えていた。社らしい何も見当たらなかった。
御陵では老人がひとり、背を向けて苔にこぼれた木の葉を拾っていた。青空がまぷしい。せせらぎを
へだて、二重の垣に包まれて、悲運の皇子の奥津城(おくつき)は事もなげに灌木の叢に蔽われていた。肘を副えて
玉垣に碕りかかり、うなだれた恰好で私は首から背へ日光を浴びた。静かだった。
ポケットの膨らみが気になり、掴み出して、うむと紙紐の結びめを引き切った。粗末な包み紙をはぐ
る音が遠慮なくらい耳障りだった。本当に大友皇子はこんな静かな中で死んだのだろうか。むしろ長尾
の崇福寺を志賀越に山背(やましろ)か丹波へ逃れておれぱ一一。
大海人の兵は息長(おきなが)の横河、鳥寵山(とこやま)、安河で大友の軍を破った。瀬田では近江側最後の守りも崩した。

湖を西から北へ逃れる道も、遥々余呉を迂回して来た大海人自身のために安曇(あど)の三尾城(みおのき)で阻まれていた。
身動きを喪った心地でずるずると、木隠れに長等へ足をはやめながら、大友は死ぬ事にどう脅えただろ
う、突兀と頂ちかくに膚を露わした山をながめ、とてもあそこまで登れないと思ったのではなかろうか。
石を索くように膝から重く萎えていただろう、秋風が木々を和めるように揺れていて、疲れた眼にも美

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しい色を、草や木の葉や、有るかないかに咲くだけの花は光らせていただろう。
そうだった、ここが新羅崇福寺の跡か、そうか、といろいろ想い到れば解きかけたおもちゃの包みが
面倒だった。
見た通りの手品だった。比良の暮雪、矢走(やばせ)の帰帆などと数えたてれぱなおさら変哲もなく、くるりと
裏返せば見ならわぬ中国の風景の方が却って眼を惹いた。王さん、か一一。
中国人かと想像したのに、おおぎみ(4つ傍点)などと思い上がった姓のあの婦人が今さらふしぎだった。要する
に何も思い過ごしで、近江神宮でのあやかしも、我から惑った幻だというにしても、もうあの人に逢わ
ず、逢っても返す風呂敷をもたないという事が、ふしぎだった。新幹線で隣り合った事すら、冬の堅田
以来の十市幻想を、また思い惹くため我から描いた絵空事、とそうも言ってしまえば本当に呆気ない。
皇女の事を、必ず書こうと思い込んでいた訳ではなかった。たまたま当来寺を尋ね当てた所から、粗
っぽい大筋のようなものが頭の中にできた。それさえ日々の勤めにとり紛れていたのに、妙な具合に滋
賀里の人と逢ったり、舎利孔に取り寵められた秘色の伝説が、昭和の今も生き存らえて、見ぬ青色の夢
を追う人がいるという噂や、妖しい夢に愚かれて崇福寺塔心礎を掘った青年の事も私は聴いた。
青年は死んだそうだが、もしかして王というのはその青年の姓ではないのか、それなら風呂敷は。綺
麗だったあの婦人は一一。
他愛ない想像の糸は勝手気儘にほぐれほぐれていた。結局ちょっとした物狂いに催され、前の機会に
は見過ごした十市の墓を私は尋ねて来た。何時からか、多分よほどちいさくから、私はこういう夢想に
淫するたちであった。どんな絵空事を描きかぶせようと差支えのない身の上のあいまいが、時に誇らし

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く、時には荏びしいのだ。
それにしても皇女の墓は。秘色のさかずきは一一。
薄曇って、足もとから浮かぶような明るさもいつか物静かな夕ぐれちかい山辺のけしきと変わってい
た。
御陵守のじいさんが来た。「あっちへもお寄り、新羅(しんら)明神」と、何となく山手を指さし、松と杉苔に
囲まれた古い石井戸のトタン蔽いをがらがら引きずりおろした。
「三井(みい)の園城寺っ(ち)いまっしゃろ。その御井(みい)の水がこの山手の新羅明神、新羅善神院の裏のお池とつな
がってるいういい伝えが遺ってまんにゃ。御陵のこの井戸もなかなか深い。水は実は琵琶湖の底をくぐ
り抜けて遥々竹生島に湧いたアる神泉に通じてるいうて、古いものの本にも書いたるそうどっさ。そや
で、この新羅明神だけはだいぷ離れたアるけど三井寺で世話したはりまんにゃ。昔、源氏の大将新羅三
郎義光が社前で元服してから奥州の戦に初陣に出たいうくらい、由緒の深いお宮です」
じいさんはまたがらがらトタンを被(あぶ)せてしまうと、何という事なしににいっと微笑った。
「その池ってのは、どんな」
「行かはったら分かりまっさ。明神さんのすぐ裏に浅い竹やぷがある。お池はやぷの傍を奥へ突き抜け
た崖の下にありまんにゃ。五間足らずのちっちゃなお池や。そやけどあんた。そのお池のある崖下の空
き地はそら月の出の時分なんか皓々と明るい。山の花もようけ咲きよって、蛇みたいなもんが出て来よ
らんうちはなかなか、ここともまたちごて、ええとこどっさ」
「その池のちかくに、十市内親王のお墓が」

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「そんなもんおへん」
気に障ったという顔をして、じいさんは箒木を引きずって、行ってしまった。何かがっかりして私は
御陵を出た。
身丈ほどの石垣の上に二重菱の透垣(すいがい)を華奢に立て重ね、木々の重みに軒崩れんばかり暗い翳を底籠も
らせて、新羅明神は荒れはてていた。ただ一基の白寂びた石燈寵が垣内(かいと)へつづく石段に影を落としてい
た。
南面した社殿から鍵の手に石垣づたいに山裾へめぐった生垣の内が、瓦葺きの社家であるらしく、垣
のきれめに由緒ありげな門が、小さく、きちっと扉を鎖していた。斜めに高く抽ん出た、竹やぶの、一
際みごとな二、三に眼を惹かれるのを、見下ろすように長等の赤膚。
帰化人の手で新羅崇福寺がこの地に建てられた事は何とか分かる。しかし沙門道円がいつ迎えられ、
大海人や十市皇女がどのような帰依、とまではなくともこの寺のために力を添えたかが私にはよく分か
らない。仏徒を以て自任した中大兄があれほどの暴戻(ぼうれい)を加えた真の動機が私にはつかめない。新羅寺覆
滅の後に道行が忽然と当来寺を住持できた経路のようなものも文献の上では何も分かっていない。だが
「当来」と彫った堅田幻花庵の額のみごとな文字は鮮やかに記憶にあった。
十市皇女の秘密を追うなら、やっぱり道行の盗宝剣をめぐる妖事オヨヅレからもう一度町暉になぞってみたい、
そのためにも道妙尼に今度こそ手紙を書こう、また堅田へも行ってみよう、と私は思った。
花の頃が佳い、案内してもいいと道妙尼はいっていた。花といえば桜らしいものを今朝からまるで見
なかった。それも可笑しく、尼さんの代りに御慶守のじいさんが案内してくれたのも、何だか可笑しい。

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いっそ元気に私は石段をかけ登った。
明神と住まいの間にはへだてもなかった。すぐ目につく所に、まだ新しい女乗りの自転車と大きな行
水だらいとが勝手らしい入口のわきに立てかけてあった。
うしろから人が来た。
鞄を抱えて、背が高くて。ちょっと驚いたらしいが、「何ぞ」と声をかけて、主人らしい五十年輩の
その人は、こんな客に馴れているのか、恐縮する私に、気さくに立ったまま応対した。
明神の事なら三井寺の事務所で訊ねた方がいい、秘宝というほどでないが、それもやっぱり事務所で
分かるといった。「おおむかしからここに住んでますが」とあはあは笑いながら、もう昔、梵釈寺西塔
心柱の礎石が行方不明だったのが、新羅院で見つかったと新聞にデマを書かれて弱ったといい、風流そ
うでも不自由な住まいて叶わんと、また笑う。
神職ででもあるかと訊ねたが、大津市の中学の教師だとか、今度は私の方がにっとなった。もしかし
て、王さんと仰言るのではと口ごもると、相手は一瞬ぽかんとしていたのが急にげらげら笑って、勝手
の柱に打ちつけた表札を指さした。山田(2つ傍点)正友一一。声をききっけて十六、七の娘が顔だけ見せ、すくま
た引っこんだあとでも主人は笑いやめず、おおぎみ(4つ傍点)さんというのは、前の、弘文天皇御陵のこの辺での
呼びならわしだと教えてくれた。ものが言えなかった。
「一一池は。何か泉か池のような所がないでしょうか」と低声で。それならと主人は気らくに家の裏の
方を指で教えた。許しを得て、チューリップやげんげの畑をまたぐのと入れ違いに、さきの娘が何かの
稽古事へか着物姿で出てきた。出てきたのと顔を合わすのと、その瞬間、膝から崩れそうなめまいの渦

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へ飛びこんで来たあの風呂敷一一。娘は風呂敷包みを抱き、目礼してそのまま小走りに明神の翳にうす
れて消えた。こーんこーん、とうしろの山に鳥が鳴いた。
竹むらのかげから崖に沿って十歩もまわると、草窪の底に、沈んだふうにちいさな沼があった。
素早く見たが古塚らしい何もなく、だが、見上げた崖の中途には、物言いたげな、一本の馬■松(うないまつ)が品
の佳い枝を張っていた。
佇んで一一。
湧き水なのか笹の葉が端へ端へ流されて、沼のふちはそんな落葉の黝ずんだ色に絡められ、けれど、
山の春の色を幾重にも吸った水が青い。青いその水の上に、誰が丹精か今咲くばかりの莟を抱いて、深
い睡りの蓮の若葉がぽっかり、一枚、二枚。
一完一

(■:髟かみがしら に 鼠に似た字* たてがみ という字)(*:巡の旁 の下に 口の中に × その下に 鼠の 下の部分)

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     三輪山   「太陽」昭和四十九年十二月号

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京都の奏家に貰われてきたのは三つか四つの頃だという。元の姓は忘れて久しく知らぬままだったが、
曳田と書いてひけたと訓むのが生みの母の姓で、父は朝倉と、高校時代に人に聴いて知った。教えたの
は同じ町内のいい年をした大人で、その男は当時何かわが家と大揉めの最中だったらしく、私が実は貰
い子と暴いて親の方を困らせる算段だったが、噂する者ならどこにもいて、幼稚園の時分にはもう「お
まえ、貰い子」と近所の子に囁かれ囁かれて知っていた。
曳田と朝倉は分ったが、自分がどちらの姓を名告っていたか、多分向うも知らなかったのだろう、そ
れで、ある日現と些細な口論の際、唐突に、すこし意地わるく、自分がこの家へくる以前の苗字はどち
らだったか教えてくれと切口上で喋ってしまった。両親とも顔色を動かし、父は観念したように「ひけ
たや」と答えた。母は涙をこぼした。私はいっそ陽気にその場を切りあげ、その後わが家の空気にとく
に変化はなかった。
曳田は変だ。朝倉の方がすっきり響きもいい。それに父でなく母の姓を私が名告ったことや親二人が
別々の苗字でいたことに、陰気な疑問は感じた。但しその種の不審は押し殺すすぺも、幼稚園の昔から
覚えていた。「二人ともとっくにお死にやしたんやさかいに」という弁解がましい母の呟きも、そう信
じておく方がいいと私は分別した。

87

京都をはなれ、結婚し就職して東京で暮すことになってからは、幾分奏家への遠慮もなく、すると組
合で出している年四回の機関誌に、わざと曳田の姓を使って短歌をのせて貰うことも度重なり、はじめ
は「ひけた」とルビをふっていたのも追々不用になって、「曳田さん」と戯談(じようだん)に呼ぶ社の人もできた。
気に入っていた朝倉姓の父は何でもなく、かりそめに曳田を名告っているうち、時として胸の底の一点
を絞られそうに私は記憶にない母のことを想像した。
「あたし、すこしなら知ってるのよ」
妻は京都の母に聴いている貰い子の事情を喋ろうとする、のを私は頑なに口を封じて話させなかった。
「知らぬが仏さ」
そう私はうそぷき、「そうね」とあっさり相槌を打たれてもそれはそれでふと寂しい。社宅暮しに娘
も一人できて、私はいよいよ熱中して歌をつくった。「曳田さん、今度も頼みますよ」と雑誌の責任者
に声をかけられるほど、私は勤め先でひとかどの歌よみとされていた。高等な医学書をこつこつ出して
いる出版社だ、毎日が地味で静かで、大声で電話に出るような編集者は一人もいない。次第上がりの管
理職になっても私は誰にも咎められず組合雑誌に短歌をのせていた。
「おたのしみが有って、いいわ」
謄写刷の本ができてくると妻は微笑(わら)い、ささやかな自愛に私はてれる。誰に倣うのでもない、少年の
頃から歌は吾一人の口ずさみにすぎぬ。「きみにだって、つくれるよ」「いえいえ。お気づかいなく」と、
いつも同じことを言いあい、そして時はゆっくりと、余りにゆっくりと廻(めぐ)った。
この春になって、私の課に三輪君という新人が配属された。入社早々の連中と並んで自己紹介の短文

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を組合誌に書いているのを見ると、他のはまじめにもふまじめにも年々歳々人相応な中に、三輪君のは
歌が一首きりで、それも「三輪山をしかも隠すか雲だにも情(こころ)あらなも隠さふべしや」は誰でも知ってい
る額田姫王(むかたのおおきみ)だか天智天皇だか、何にしても上古の作だ。
「ふざけた奴だなあ」
課長会議では本気で怒っている人もいたが、歌の意味と三輪君の姓を掛け合せて、新入社員昂然の述
懐と取れるというのが編集長の説だった。気の利いた新人じゃないか。おおかた笑い声も混って、三輪
君の点数は低くなかった。が、私にはかるい反感が残っていた。三輪君が国立癌センターの三輪部長の
甥か遠縁かといった申し次ぎも気重だった。三輪先生を責任編者に据え、癌に対する放射線治療の効果
を最高の研究水準で多面的に再検討する本を、私はかなり熱心に計画していた。三輪君はよその課へま
わして貰いたかった。
総務課長立合いで会議室で初対面の印象は良かった。小柄なところ、優しい眼をしているところ。あ
れ、と思うほど三輪君の表情は生真面目で、はきはきと背筋を伸ばして私に挨拶した。他の奴らよりず
っといい。私はあっさり先入主を放棄して三輪君の色白な額の、子どもっぽいかすかなそぱかすを眺め
ていた。
「課長さん。今日、昼飯ご一緒していただけませんか」と、その朝のうちに三輪君は私の傍へきて言い、
「さん」はよせと念を押し、笑って承知した。言われずともその気だった。どんな私生活上の懸念をも
っていないと限らないし、それにあの「三輪山をしかも隠すか」も歌ではあり、それなら同じ号に載っ
た私の作品に、何か感想があるかお世辞の一うも言うかと楽しみだった。それほど誰も私の歌には反応

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してくれなくて、我から「あれは埋草ですよ」と逆に誘う水を流す始末だった。
「ごちそうになっていいですか」
三輪君は品書き片手にそう訊く。頷き返すとあっさり一番安い握りと言うのに、笑えて私も倣った。
醤油や山淑と一緒に油壷ほどの赤絵の一輪ざしが卓にのって、都忘れのちいさな紫に三輪君はかるく指
先をふれる。
「課長のことはよく知ってます」
三輪君は、曳田正雄というのは秦課長のことでしょうと言い、その無邪気に得意そうなのが可笑しく、
「へえ、よく知ってるね。誰かに訊いてきたね」と私は恍(とぼ)けた。
「いえ、誰にも訊きませんけどね」
「一一」
「曳田一一ご存じですか曳田神社」
「いや知らない。一一どこにあるの」
「僕の、元の家の近くにあります。えらく荒れてますが、むかしはちゃんとしたお宮だったんです」
三輪君は名大の文学部出で、親の家も名古屋市内だった。字を確かめても曳田神社で、やはり「ひけ
た」と訓む、が、但し名古屋でなく奈良県桜井市にあると言う。三輪君の祖父母は文字どおりの三輪山
の麓、大神(おおみわ)神社の鳥居前から山ぞいに県道を南へ下った会屋という村に健在だった。私が住んでいる都
下保谷(ほうや)市にも保谷さんが多いように、三輪山界隈にも三輪姓の家が多いのだろうし、それなら「情(こころ)あら
なも隠さふべしや」は単身就職上京してきた三輪君の気もちを巧みに代弁していて、編集長が解釈した

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ほど息込んだものでもなく、素直な懐郷にちょっぴりお国自慢をこめたものと合点がいった。
私は三輪君に延喜式の式内社だったという曳田神社のことを尋ねた。彼はちいさい頃、夏休みになる
とそのお宮へよく蝉や鍬形を取りに行ったが、それ以上に曳田神社で想いだすのは一面の大きな栗林だ
と言う。
「栗林ってのは妙に雑草が生えないんですよね。肥えた黒い土がしとっと人肌みたいに濡れてて、葉先
を彫り込んだしゃきっと堅い青葉に包まれて、毬が青い鋭い針を立ててくる時分、とても佳いんです。
ちょうど朝日が黄金(きん)の矢のように泊瀬(はつせ)や巻向(まきむく)の山はらを流れてきて一面の栗林を足もとから照しだすと、
何でもない濡れた黒土がすぱらしく賛沢な色に見えます一一僕、風が青葉や青い毬をそよがせるの聴き
ながら、よく漫然と林の奥の方まで一人で歩くんです。そこから曳田神社の石段が、まだまだ高い木隠(こがく)
れの尾根に見え隠れに続いてましてね。一一でも」
「でも、て、何なの」
「登ったことはないんです。登れないんですよ」
「石段をかい」
「ええ。曳田神社は今は鳥居もないんですよ。たしかにこの辺に鳥居、と思える辺りから、幅一メート
ル半かニメートルくらいの石段が急な坂を三輪の曳田山へ一直線に架けてあるんだけど、そりゃ凄い木
の茂りようて、僕が子どもの時分、もう三、四十段から上は石段の真中にまで二抱えくらいの樫の木が
でんと居坐ってて、そのうえご存じでしょ三輪は蛇のお山ですからね。どうしようもなくて僕なんか上
まで行ったことはありません、子どもは、行っても下の栗林まででしたね」

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「社殿も、じゃ、見たことがない」
「ないです。第一もともと有ったとも言えないですよね。三輪山と一緒で山そのものを祠ってる。それ
か、苔むす巨大な磐座(いわくら)か」
「蛇の巣、かい」と私は笑いこそしたが、大和は国のまほろば、名もなき神々の行き交う神籬(ひもろぎ)の山の奥
に群れて在るという鬱然たる磐座だの、大小の湖、沼、池に光る澄んだ空の色だのを想像して、思わず
胸を鳴らしていた。
「朝日も椅麗だけど、三輪や巻向に夕雲かがよう時分も佳いですよ、三輪川に夕霧の立つ頃も。静かで
すからね」
「曳田神社、か。一一そんな所なのか」
「曳田さんとしては、ちょっと頭を下げに行かれる義理がありませんかね」
三輪君は愛くるしい皓(しろ)い八重歯を出して年寄をからかったが、ふと私もそんな気がした。
「誰が祠ってあったの一一」
三輪君は、ちょっと思い出し顔に私を見てから、「一一曳田部の赤猪子(あかいこ)、かな」と言った。
聴き憶えもない。そもそも奈良県を私はよく知らない。三輪、長谷、飛鳥のような南方の山辺は匂い
も嗅いたことがない。だが、「奈良」には自分の記憶にない縁はあるらしく、京都の家へ貰われて行っ
た当座、何かというと私は「奈良へ傷まんもん買いに行こ」と父や母に纏わりついたのが大層あどけな
かったとか、「女の児みたいに可愛かったんですって」と、これは妻の口から聴いたことである。
「課長一一三重県の津市はご存じでしょ」

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「知ってるよ。去年の夏、きみに、これから取材を手伝って貰うことになる新生児学叢書の企画で、三
重大学が当番の新生児学会に出張で行った。旅館が払底してて弱っちゃってね。きみはよく知ってるだ
ろ、遥々ほら、有引とか青山高原とかいう山の奥のさ、榊原温泉まで出かけて行ったのに、すげなく断
わられて一一往生したあれは」
「あんなとこ。秦課長みたいなクソ真面目な方が行かれる温泉やないですよ」
「ヘっ。俺、クソ真面目かい」
三輪君は流石に朱くなって、両掌を顔の前でむやみに横にふりふり、もしその時私が乗った山また山
の中の近鉄大阪線を、もときた伊勢松阪の方へ戻らず、まっすぐ奈良盆地へ七重八重に山間(あ)いを潜りぬ
け潜りぬけして行げば、もう次が桜井市というその一つ手前の駅の真北に「まさに玲瓏と光って見える
お山、が、うま酒三輪の山ですよ」と教えてくれた。
「曳田の山は、三輪山の真南の麓へ、象が太い鼻を垂れたみたいにつうっと伸びてる尾根そのものなん

ですよ。曳田さんの石段はその鼻の上に架かってる。でもこの頃は、曳田神社(さん)と、あの辺の人さえ呼ん
でないだろなあ一一」
「と、桜井じゃなく、一つ前の」
「ええ。朝倉駅で下りるんです」
「一一」
「長谷寺、みな佳いって言いますけど、あそこからの三輪山は、何としても夏向きなんですね。朝倉か
らは表向きとも言えないけど、まあちょうど曳田の鼻が三輪山の正面の一つの顔と見えなくないし、泊

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瀬上卿(はつせかみのごう)や巻向の穴師をうしろに控えて、美しくて深くて尊い、底知れない山青垣の姿が、ぽーっと一望
に眺め渡せるんですよ。雄略天皇が泊頼朝倉宮をちょうどあの一帯に造ったの、そりゃ感じ出てて、僕
一一好きなんです」
「一一好き、って何が」
「雄略天皇ですよ。大泊瀬稚武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)一一籠(こ)もよみ籠(こ)もち、掘串(ふぐし)もよみ掘串(ふぐし)もち、この岡に菜(な)採(つ)ます児、
家聞かな名告(の)らさね、そらみつ大和の国は、おしなべて吾(あれ)こそ居れ、しきなべて吾こそ居れ、吾こそは
告らめ家をも名をも、って颯爽としてで佳いじゃありませんか」
そう昂然と顔を挙げながら、三輪君は妙に憂欝そうだったし、私も暖昧に頷くよりなかった。万葉集
は苦手だし、それに三輪君が昼飯を一緒にと言ってきたのは、いささかも彼自身内々上司の耳に入れて
おきたい用件があってのことでなく、とすると先刻来の話題は、新入社員が広義の身上報告をしている
とも取れるが、思えば幾分薄気味がわるい。第一、年々相変らない新人の顔ばかり見ていて、三輪君ほ
ど初日から、平然と旧知のように私と喋ったような人物は従来皆無だった。
「でも何で、ペンネームが曳田なんです、秦じゃなくて。それとも、ひきたと訓むのかな」
「いやいや、それはひけたの積りなんだが一一」
堪らなく鬱陶しくなり、隠すことでもないので私はそれが自分の生みの母親の姓だと説明した。必要
もなく、あんまり符合するのも厭さに父の方のことは言わなかった。が、三輪君は朗かな口調で、たか
思いなしよく光る黒い瞳(め)を逸らし気味に叫んだ。
「それで一一お父さんの方が、朝倉なら面白いなあ」

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「一一どうして、かね」

予定通り三輪君を、原稿入手時期がきている新生児学叢書の担当ときめた。
生まれて二週間までの赤ちゃんは、母胎から外に出たというだけでも想像を絶した激動期を生きる。
素人にも察しがつくように当然この時期には産科小児科両方の医者が関係する。新生児学の専門書とな
れば、双方協力があってこそ期待がもてる、が、それが難儀だった。私は娘の誕生以来この厄介な畑を
何とか耕そうと熱中していたが、やっと去年津市の学会場で六分冊の叢書の出版企画を纏めた。筆者(せんせい)は
全国の研究機関から外科、麻酔、病理も含めて計五十二人と決めたが、案の定執筆依頼の段階からいろ
いろあって、担当者は早くに音(ね)をあげ、五月には三輪君に引継がせるからという口約束を、拝むように
頼みにしていた。
三輪君はへまもやるが、珍しく骨身を惜しむということがない。言葉づかいはやや率直過ぎても先生
方に若々しいと取られて、大概の新人がさまにならない電話の受け答えもなかなか要領よく、はなしの
様子から私が横で指一本拳げれば粘り、二本拳げれぱうまく切りあげて受話器を置く。専ら私は三輪君
の後押しを努めた。
三輪君に、実の父が朝倉姓だったことはやはり言わず仕舞いだった。彼も、私がどもり気味に「どう
してかね」と訊いたことにまともな返辞を返すひまなく、昼休みの時間が切れた。寿司屋を出て、本郷
三丁目の横断歩道を会社の方へ戻る途中、三輪君は「奈良は佳いとこですよ」と咳き、独言じみたその

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低声(ごこえ)が、私にはふと耳新しく聴こえたのを忘れない。
三輪君のことは妻に話した。奈良って、佳いとこだそうだよ。そんなふうに話した。「奈良へ傷(いた)まん
もん買いに行こ」と幼い私がよく言ったはなしは、この時初めて妻に聴いた。いつになく素直に聴き、
「傷まんもん」が二人の話題になった。私は故障しない物の意味、反射的に、粗末な、赤やら緑やらに
泥絵具を塗ったおもちゃを想像した。が、妻の説はもっと説得力があった。
傷む、は食べ物がいたむ、腐るの意味だろう。「奈良」はともかくとして、日保(も)ちのする食べ物を買
いに街へ出かけて行くことが、十日半月に一度の割で有ったような家庭での、多分私が耳に聴き慣れて
いたそれは大人の言い草に違いない。妻はそう言うのだった。
「そんな時、あなたも一緒に奈良へ連れてって貰ったのよ。そしてきっと、おもちゃ買っていただいた
り、美味しいもの食べさせて貰って、ずいぶんと楽しかったのよね。だから傷まんもん買いに行くのが、
あなたにはとっても嬉しい想い出だったに違いないわ」
「一一そうなのか」と末は口の中で私は唸った。
「きっとそうよ。あなたの育ったお家から、そんな買い物に出るのに、奈良は一番近い、多分一番便利
な場所にあったのよ」
「ほんとのことか」
「いいえ、それはあたし知りません。でも、そうよきっと。京都のあの街の真中からまさか奈良へ傷ま
んもん買いに行きゃしないわよ。だからあなたが可愛い顔して、奈良へ傷まんもん買いに行こって京都
のお母さんの袖引いたのは、京都以前のお家の環境とか、人声なんかが、それだけの言葉の中にきちっ

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と残ってるってわけだわ、そうなのよ化石のように一一」
「そんな、傷まん食べ物を買うなんて一一やっぱり母親だったのかな」
「女の言うこと、よね」
「その親が、なんで遙々京都まで貰い子に遺るのか一一」
それはと言いかけ、さも厭そうな私の顔を見て妻は口を噤んだ。そして方面を変え、三輪君に聴いた
曳田神社のことを面白そうに蒸し返す。しまいに百科事典の付録の地図帳まで抱いてきて、忽ち桜井市
の東に近鉄朝倉駅も見つけてしまった。曳田神社はむろんのっていない。
「あいつ、造り噺しよったな」とぼやいてみたが、石段だけのお宮が地図にのるはずはなく、彼のいう
象の鼻のように伸びた三輪山南の曳田の尾根は、まさしく朝倉駅の方へと三輪川を示す青い細い地図線
を隔てて真直ぐ迫っている。
「あなた、どう想ってらっしゃるの、曳田と朝倉一一」
「所詮まともに結婚した仲じゃないのさ」
「いえ、そうでなくて。この、三輪の麓の曳田神社と朝倉のことよ」
「面白い偶然と思うよ。正直気色わるかった。一一でも、ほれごらんよ地図。こんなにこまかな地名が
ぎっしりだぜ。探せば有るさよそにも。多分」
「そうね」と妻は納得し、念のため「朝倉」を索引で引くとこれは何か所も見つかったが、曳田はただ
一か所鳥取市南方の国道沿いに曳田と曳田川があり、いずれも明白に、ひけた、ひけたがわ、だった。
近くに朝倉はなく、奈良県三輪の曳田神社とは何の関わりもない。

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「ちょうど、この辺なのね栗林は一一。その三輪さんで感じ佳いわね、栗の実が熟れる頃のこと言わな
いで、黒い土と一面の栗の青葉、ですって。あたし、一一行ってみたい」
「そうだな。長谷寺が近いし、ほら赤目四十八滝なんてある。天の香久山もすぐだぜきっと」
今日一日の三輪君の印象にふと肩を揺すりはしたが、自分の課長が曳田という筆名なのが、三輪山の
歌を挨拶代りにするくらいの三輪君に、「単純になつかしかったんでしようよ」という妻の推察は当っ
ていただろう。
三輪君とよく話した。元来が連れだって教授室だの病院外来だのへ出向いて行く仕事だ、自然往き帰
りがあり、お茶も喫む。彼は専攻まで記紀歌謡だというし、たしかに私の知らないことを沢山知ってい
た。が、職掌柄では勿論私の方が物知りな畑は広いわけだ。数えて十若い三輪君に物を訊いててれ臭く
なく沽券に関わるわけでもないと悟った私は、とある梅雨の入り頃ある日の雨宿りにお茶の水日大病院
前から近くの喫茶店に遁げこみ、そして気になっていたあの「朝倉なら面白いなあ」の先を尋ねた。
予想に違って三輪君は一瞬眉間にしわを寄せた。が、すぐ、何でもない古事記に出ているはなしです
よと前置して手短かに話してくれた。
雄略記に、天皇がある日遊行のついで三輪川の瀬に下りて衣を洗っている乙女を見かけた。古事記に
は「それ容顔(かほ)いと麗(よ)かりき」と書いてある。天皇はそなたは誰の子かと訊き、乙女は誰の子とも答えず
曳田部の赤猶子(あかいこ)と自ら名告った。天皇は「そなた必ず他の男を夫にせず待って居れよ。すぐ人を迎えに
遣るから」と言いおいて朝倉宮に還り、赤猶子はひたすら天皇の仰せのまま官人の迎えを待って、すで
にして八十年という歳月を空しく送った。赤猶子は思った、仰せ通り待ち暮すうちはや数え切れぬ年を

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経て、顔かたちともこう痩せ衰えたからは所詮頼みがたい成行だけれど、八十年待っていた自分の気も
ちはせめて帝に知っていただきたい。でないと余りのいぶせさに行く先耐ええまい。
そこで赤猶子は山、里、川の貢をどっさり机に積み朝倉宮へ雄略天皇を尋ねて行ったが、天皇は時な
らぬ姥の献げ物のわけが分らない。誰なのか。恭しげに、何を思って宮へ参ったか。赤猶子はしかしか
の事あってと言上し、「天皇(すめらみこと)いたく驚きまして、吾(あ)ははやく先の事を忘れたり。然るに汝(いまし)守志みさを)に命(みこと)を待
ちて、いたづらに盛年(みのさかり)を過(すぐ)ししこと、いと愛悲(いとほ)し」とつくづく赤猶子を見て、「婚(め)さまく欲しくおもほ
せども、その極(いた)く老いぬるに憚りたまひて、得(え)成婚(め)さずて、」代りに親しく二首の御歌を下された。
「そのあとの一つが、曳田の 若栗栖(わかくるす)ばら 若くへに 率寝(いね)てましもの 老いにけるかも というんで
す」
「例の栗林だろうね。若くへにがよく分らない」

「若いうちに、でしょうが、若壊(く)え、若々しく崩れたばかりの新しい黒土の上で、と取っている歌人が
いましてね。僕はこの方が古代の感覚だなと思ってます」
「老いにけるかもが、ひびくねえ」
「でもね曳田さん一一赤猶子は八十年も待った老婆なのに、一方雄略天皇は相変らずの、颯爽とした盛
年の感じじゃないですか。違いますか」
「違いますか?一一そう言やそうだ」
「でしよ。そこが僕、不思議です」と三輪君は前にも雄略天皇を好きと言った時と一緒の、逆に無念な
というほどの顔をする、それが可笑しかった。私は興に乗って「それで」と先を促した。

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雄略天皇の歌を聴き赤猶子はむろん泣いた。涙は丹(に)摺りの袖をとおして朱く染まった。そして泣き泣
き返した二首の歌の、あとの一つが「日下(くさか)江の 入江の蓮(はちす) 花蓮 みのさかり人 羨(とも)しきろかも」かく

て帝は「老女(をみな)に多禄(ものさは)に給ひて、返し遣(や)りたまひき」と、つれなく古事記は書く。

「日下江、は変だね。河内日下の直越道(ただこえみち)って聴き覚えがあるし、とにかく日下江は、生駒の北からまだ
西の麓だよ。東大阪市にあるよ」
「よく憶えてらっしゃいますね」
「いやその目下江は近鉄奈良線の傍でさ。ほら例の阪市大(はんしだい)の麻酔のS先生のお宅があり、何回も手紙出
してるもの」
「実は雄略天皇のお妃というのが大日下王(おおくさかのみこ)の妹の若日下部王(わかくさかべのみこ)でして、曳田部の赤猶子は、その妃を羨ん
でいる、というのが僕の解釈」
「しかし身の盛り人はないよ。赤格子が八十過ぎならそのお妃だって婆さんじゃないか」
そこですよ問題は、と三輪君ひとり感に堪えない顔をする。白い額にやや神経質そうな翳が籠った。
彼は、雄略と若目下部王は河内から侵入した征服王朝の大王と大后だったと言い切り、彼らが、八十年
待って空しく「容姿(かほ)既に耆(お)い」「痩(やさか)み萎(かじ)け」た赤猶子を、あたかも時を超越した盛年の美しさを輝かせ
平然と迎えたのは、土着の三輪の大神に仕える赤猶子と三輪王朝の旧族を二重に辱めている、とも言っ
た。
「それでいて赤猪子は、羨(とも)しきろかもでしエ、恋敵のこと羨んでる。天皇を愛してしまってる一一」
「なんだかはなしが、すこぶる面白くなるな」

100

唇を噛みそうな三輪君に笑って応じながら、但し私には経緯が十分分らないし会社にも戻らねばなら
ない。席を立ちがけ三輪君は、河内の日下江から生駒越えに真東に当って、奈良市郊外の山辺に疋田と
いう土地も、昔は曳田と謂ったと教えてくれた。秋篠寺や西大寺の西、南、の方角で「奈良市中へも、
京都へだっても便利ですよね」とつけ足されて、正直私はすこし顫えが来た。三輪君は鳥取県の曳田や
曳田川も名前を知っていて、三ヶ所何れが先と言えないけれど、とにかく出雲は大和と、とりわけ三輪
とは、神代の昔から切っても切れない仲でしたと言う。
「三輪山の祭神大物主神(おおものぬしのかみ)は、出雲の大国主神またの名は大己貴神(おおなむちのかみ)の御魂(みたま)の神、つまり同一神なんですか
らね」
雨上がりのお茶の本橋の上から汚れた川面を呆と眺めて歩いていた眼の前が、一瞬、濃い紫色と黄色
に入り混じり、足もとが地の底へ沈む気がした。「曳田部は三輪氏の支族なんです。課長と僕、だから
親類なんですよ」と、三輪君ははっはと笑った。
地図の上で疋田は簡単に見つかった。それが元の曳田かの確証は何もない。また三輪君が、遥か太古
を想って河内王朝と三輪王朝の角逐などにのめりこむ、そんな世離れた関心は私にない。が、その疋田
から西大寺駅へ多分歩いて十分、電車に乗れば終点の奈良は二駅め、京都へも一路北へ真直ぐ、という
ことに動揺していた。これなら「奈良へ傷ま(いた)んもん」が買いに行ける。三輪も朝倉も忘れ、私はルーペ
を持ちだしその疋田界隈を地図の上で仔細に眺めて飽きなかった。だが気後れして、私はその奈良に近
い疋田のことは妻に黙っていた。
父、母、という思い方は馴染まなかった。

101

「朝倉」は「曳田」に何をしたのか。
それが不審の端的な形だった。曳田部の赤猶子の哀話はその形に忽ち鮮かな色と肉をつけた。道なら
ずも燃えたつ恋だったならと、祈ってでもそう想像していたのが苦々しく強(したた)か打ち砕かれた。結婚する
が今は待てとでも言う朝倉に妻がいたのか。子もあったか。曳田は朝倉が独り現われる日を って生駒
山に立つ雲を眺めがちに、あまりいぶせくなると秋篠や法華寺へも、足を伸ばして高円(たかまど)の白毫寺だの斑
鳩(いかるが)の中宮寺へも、訪れ暮すような日を送っていたのか。帰りには奈良の町を呆けて歩き、いたいけな子
に猿沢の池の畔で綿あめ買ったり鹿にせんべいをせがまれたりの、挙句は薄紫に茜入りの絹の風呂敷に
日保ちする食料をちいさく抱いて、僅かな電車賃もおしんで佐保川渡り秋篠川を渡って、この疋田と書
いてある田舎まで歩いて帰ったのか、それは或いは笹の代りに父(てて)なし子の手を牽くやつれ狂女の風情で
はなかったか。家に母子を待つ誰一人もなく、やがて人買いほどの顔の赫い大人がきて物ごころつかぬ
幼な子をむりやり連れては行かなかったか、いやいやそれさえ酷い朝倉がさしがねではなかったかと、
さながら地図帖を両手で抱いて私はふがいなく涙をぼたぼたこぼした。
や、大和郡山は大雨だと掌で地図の上の涙をかきまぜ、自然、あの赤猶子にも子はあったと想い寄る。
笑止にも母は八十九十を過ぎても子はいたいけな三、四歳としか想えない。泊頼朝倉宮に参(ま)い出て天皇
に「百取(ももとり)の机代(つくえしろ)の物」を献げる赤猶子一人が髪まばらに腰萎えた姥でいて、帝、后も、わが子さえも青
葉匂う若竹のように幼かったか、私は、激しく首を横にふりパチンと分厚い地図帖を閉じた。妻が寄っ
てきて、顔を見て、黙って行ってしまった。

102

三輪君の初仕事はほぼ順調と言えた。夏休みの帰省を勧めても取合わない。逆に私に、「曳田さん、
曳田神社(さん)へおいでになりませんか」と半分戯談に勧めた。
産むのはいいけど、子ども育てるのって大変だなと三輪君が漸(ようよ)う呟くようになって、私はほくそ笑ん
だ。新生児学の面白さ大事さが分ってきた、仕事が手に入ってきたのだ。そうさと、私も親で二重に先
輩顔しながら、曳田の母へ想いは動く。多分本当にもう死んでいるのだろう、生きていられるわけない
と、私は肚の中でかすかにたぎる怒りも感じていた。
「ちいさこべの、すがる、ご存じでしょ」
「名前くらいね」
命じられ、蚕(こ)を間違えて児(こ)を集めてきた人物だが、雄略天皇の臣下とは忘れていた。それに私の印象
では少子部螺羸(ちいさこべのすがる)は子どもと共にでなく、小男が赤い物を額につけ赤い幡(はた)を立てて馬上で「雷こい」と空
へ叫んでいる姿で想い出せる。「ちくしょう」と、たしかに三輪君はそう舌打ちした。
雄略天皇はある日、すがるに、御請(みもろ)岳即ち三輪山の大物主神の正身(むざね)が見たいので連れてこいと命じ、
すがるは早速行って大蛇(おろち)を捉えて戻った。慎しみなき帝に大蛇は怒って雷(いかずち)となり、「■■(ひかりひらめ)きて、目精(まなこ)
赫赫(かがや)」いたというが、聖なる山に踏み込まれ捉われ、正体を露わされた三輪の神は二重に侵略の王者に
恥じしめられていると三輪君は憤慨し、しかもすがるには改めて少子部雷(ちいさこべのいかずち)の名を賜っている。やがて
彼が死ぬと雄略天皇は「雷を取りしすがるが墓」と碑文の柱を立て、傷ついた神は雷となって柱に落ち
て蹴裂いたものの、裂けた柱にはさまり再度捉えられ、放たれても七日七夜正気を失っていたという。

(■:兀 のうしろあしが しんにゅうのように長く その上に 虫)

103

天皇はよろこんでまた柱を立てて「生(いきテ)も死(しにテ)も雷を捕へしすがるが墓」と碑(いしぶみ)にした。
「ばかな話ですよ」と三輪君はぼやき、そんな彼に馴れてしまって私もひそかに本気で三輪山の神の恥
辱に同情した。赤猶子とは、その大蛇(おろち)であり雷である大物主神に仕えるかつては高貴だった三輪の巫女
であり、それと知って遊行の途中雄略天皇はわざと誘惑したに違いない。そう思われますと言うなり三
輪君は狭苦しく人の集まる昼休みどきの喫茶店で、トーストに手もつけず沈欝に顔を伏せた。
「そうだなあ一一」と私も呆け気味にゆるい相槌を打ち、雄略が姥赤猶子を久々に見た時の、「御諸(みもろ)の
厳白梼(いつかし)がもと 白梼(かし)がもと ゆゆしきかも 白梼原嬢子(かしはらをとめ)」という歌のことを考えていた。歌は八十年前、
土着の怖るべき神に仕える三輪の女を嘲けりからかった言葉が、一抹のあわれと悔いを帯びて底の水泡(みなわ)
が浮かぷようにさも帝の唇に甦ったというひびきを秘めている。「ゆゆしきかも」とは、今様に言えば
口汚く「御大層ぶりやがって」と嗤ってか、なにしろ「そらみつ大和の国は」おしなべしきなぺて自分
の国だ、自分が帝だと菜摘の女にも昂然と名告った人だ。いつかの昔、生駒を越え金剛葛城の山々峯々
を越えて、河内から大和の三輪の王家を無残に攻め立て攻め陥した異国の大王の末だ。当世なら目も当
てられない横柄な調子で金持の息子が貧乏人の娘を、主人の息子が使用人の娘を力ずく手籠めにするく
らいに、若き雄略天皇は三輪川の瀬音さわぐ草むら、扈従に馬で輪を造らせその真中で、白昼、赤猶子
を辱しめたのかもしれない一一。
「それなのにですよ。初めに赤猶子が答えた歌は、御諸に 築(つ)くや玉垣 斎(つ)きあまし 誰(た)にかも依らむ
神の宮人 ですからね。穢れた赤猶子の奴は三輪の玉垣からも逐われ雄略に見捨てられ、寄るべなしに
むざむざ八十年生きのびてまだ男のこと忘れられないんだから、始末がわるいよ。恥さらしですよ」

(梼:寿は略字 ほんとは本字)

104

「そう言っちゃきみ、可哀想だよ。あんまりだよ」と私は急(せ)きこんだ。今度は三輪君が可笑しそうに眼
を光らせた。
「で、きみ。赤猪子に子どもはなかったのかしらね」
「いましたよ。当然ですよ。神に仕える常処女(とこおとめ)ってのは、却ってはらむんです直ぐ」
「一一」
「その子はどうしたか、ご存じない。そりゃ少子部螺羸(ちいさこべのすがる)が連れてって、秦氏に売り渡したんです。決っ
たことですよ」
「そんな一一。戯談きついよ」
「そんなこたないよ」と三輪君は口の利きようまで失敬になって来た。
秦氏が加茂氏を圧倒して勢力を布いたのは京都だが、その加茂氏も三輪王家の一族だった。そもそも
富裕のあまり太秦(うずまさ)といわれた秦酒公(はたのさけのきみ)が雄略天皇の重臣で、土着の三輪氏と河内からきた王家とを巧み
に仲介しながら独特の技術を駆使して勢威を誇った。秦氏はうま酒三輪といわれる酒も造ったが何より
機織と縫製の技に長けていて、やはり酒造同様績(う)み紡(つむ)ぎ布織る技にすぐれていた三輪の民を、自家の生
産力に力ずく組み入れていた。養蚕はもとより織り縫いの女や火炬(た)きの女も秦氏は押えた。
「すがるはまんざら蚕(こ)と児を間違えたぱかりでもなかったんです」
三輪君がそう赤猪子の産んだ子の行方を大胆に占うと、私の耳の底に遠い遠い物の気はいになってと
んからから、はたりとんとしのび泣くように機が鳴り、臥機(くつびき)や糸繰る絡■(たたり)がすだまかと見る物影となっ
て昏闇を宙に舞った。「三輪君身狭(みわのきみむさ)なんて人が、そんな少子部連(ちいさこべのむらじ)や秦公(はたのきみ)と戦い、滅ぼされていますよ」

(■:土へん に 朶)

105

と言いつづける三輪君の声も気うとかった。みわのきみ(2つ傍点)、みわくん(2つ傍点)、一一酒落てる気なのか此奴と軽い
反感も私は持って、ちょっと邪樫に「一時だよ。仕事、仕事」と自分の分だけ小銭を置いて先に喫茶店
を出た。真夏の日ざしが、眼から下、深い波の底を覗くように蒼い縞目に色褪めて見えた一一。
物の本も少々読んでみた。
崇神天皇の御代、倭迩迩媛(やまとととひめ)が三輪の神の婦(みめ)とされた。夜ごと一人の壮士(おとこ)が忍んできて朝までに帰って
行く。皇女は綜麻(へそ)の端を針穴に通し、暁に壮士の裾に留めた。夜が明けて、見ると綜麻の器に糸は三輪
だけ残っていたので、人々はそこを三輪の村と名づけ、山もそう呼んだ。三輪の糸は明らかに績み紡ぎ
に関わり、やがては布を織ることを日々のたつきとした三輪の民の生活を暗示している、といい、巫女
の「巫」の字は女が糸巻を持つ象(かたち)とも或る人は教え、また或る人は崇神、垂仁、景行の御代に三輪王朝
は末路を辿ったという。それならあの倭建命は、応神以後の河内王朝に攻めこまれる直前に白鳥と化し
て天翔ったのか。
だが、私を慴伏させたのは倭迩迩媛もさこそとは思うが、同じ祭神天皇の皇女浮名城入娘命(ぬなきいりひめのみこと)に大和の
大国魂神つまり三輪の大物主神を祭り侍(かしず)かせたところ、「髪落ち体痩(やすか)みて」ついに祭り了せなかったこ
とだ。人が神に仕え神を祭るとはそれほどの体力と念力を消耗する、実に怖るべき力わざであったのだ
ろう、あたかもそれは神への熱烈を極めた片恋いなのではないか一一眼のふちを黝ずませ髪ふり乱し、
無限の闇に瞠(みひら)いて火のように息を喘ぐ項(うなじ)白く美しい巫女の、刻一刻に衰老の時を眼に見えず積み重ね重
ねて、肌はやせて黄ばみ髪は落ち、ただ必死の眼光だけが神を恋い思う輝きを失わない。
私はさまざまな物思いの途中、こつんと固い壁に額をはじかれたように、八十年を待った赤猪子を想

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った。八十年ではない。八十年にも、永遠(とわ)にとも、そう赤猶子その人には辛く長い身に心にこたえた空
しい片思いの恋ゆえに、「姿体痩(かほかたちやすか)み萎(かじ)けて」あたかも老婆のように打ち崩れ、せめては四年五年を苦し
くいぶせく待ち暮した変らぬ「情(こころ)」だけを男に見せたくて、屈辱を重くのしかかる胸の石に抱きながら
晴やかな朝倉の宮居へと出向いたのではないか。きっとそうに違いない一一。そのうえ、思わずも産ん
で育てて、もう三つ四つの可愛い盛りのわが子も人手に奪い去られた、のなら、実は四年五年に八十年
百年の耐え難く久しい「時」の糸を績み紡いできた赤猶子に、何と酷い男の仕打ちであったことか。
神に逐われ里人にさげすまれて、赤猶子は三輪山の片端から氏の神を祭る木高い曳田の尾根へ独り身
罷ったのかもしれない。
行ってみたい。もし三輪君に聴いた通りでも、曳田神社のその石段の真下までせめて行ってみたい。
お母さん一一と、私は生まれてはじめて口にする大事な言葉を呟きながら、寝鎮まった妻や娘の顔を覗
いた。
その夜の夢に、あっと叫ぶ女の声を聴いた。常闇の底を這いまろぷような一声で夢は血汐を浴ぴたよ
うに真朱に染んだが女の姿はなく、青黒の美しい蛇が矢より早く朱(あけ)の波を騒がせて消えて行った。ごめ
んなさい、あたしがいけなかったのよと、たしかに女の声はそう聴こえて血しずくを垂れるように刻々
に弱まり、一閃の灼光があっと思うまに夢を切って落とした。床の上に思わず私は立っていた。妻が睡
げに呆れて呼ぷ。
「な。お前知っているのか、俺の母は自殺したこと一一」
娘を気にしながら、妻は坐り直して、知っていますと真面目に答えた。曳田の母に、朝倉ではない夫

107

があった、その夫は何かの事情で久しく家に帰らぬ人だったと、聴いて私は遁れるように耳を塞いだ。
なんて莫迦な一一。夫を待って空しく、朝倉と逢ってまた空しく待ち疲れ、「誰(た)にかも依らむ」の寄る
べなさに母はほとほと悔いて自死したのだろうか、罪の子を人手にゆだねて一一。なんて莫迦な。
私は寝られぬままこんな美しい伝説を、頬に粟を立てて読んだ。女は神の妻になった。神はいつも昼
でなく夜だけきた。女は夫に甘えて言った、「君常に昼は見えまさねば、分明(あきらか)にその尊顔(
みかお)を視ることを
待ず。願はくは暫(しまし)留まりたまへ。明旦(あした)に、仰ぎて美麗(うるは)しき威儀(みすがた)を観まほし」と。神も答えて、「言理的
然(ことわりいやちこ)なり。吾明旦(あした)に汝(いまし)が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくは吾が形にな驚きましそ」と微笑った。女は胸をと
きめかせた。夜の明くるを待ちかね櫛笥を見ると、それは美しい小蛇が首をあげている。その長さ太さ
さながらの衣紐(きぬひも)だった。女は驚き、叫啼(さけ)んだ。神は恥じて忽ち壮士(おとこ)となり、わたしに羞(はじ)を見せたなと怨
んで、大空を踏んで三輪山に登って行った。女は神を眼に追い、悔いて崩折れた。折悪しく神と物を食
ベた箸に陰(ほと)を撞き当て、女は死んだ。人は女を葬り箸墓(はしのみはか)と呼んだ。墓は大坂山の石を運んで、日(ひる)は人作
り夜は神が作ったという。山から墓へ、人々は大きな石を手から手へ黙々と運んだという。
象の鼻のように三輪の南へ伸びた曳田山と三輪君が言うのも、赤猪子の哀しみを和らげ鎮めようと曳
田や三輪の民が夜に日をついで積みあげた墓ではないのか。神籬(ひもろぎ)に隔てられながら遥か三輪の大物主神
の磐座(いわくら)を望み、顧みに千木(ちぎ)高しる朝倉宮の賑いを見下せる曳田山。曳田神社。石段だけの赤猪子の墓。
一人の神を待ちかねて苦しい恋をよその男に傾けた、常処女(とこおとめ)赤猪子の斎(いつ)きあまされて死んだ淋しい墓、
母の墓。三輪君には一一何も分っていない。
行きたいと、思ってしまえば機会はある。なければ作るまでだ、折良く、例の日下江に住む大阪市大

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麻酔科のS助教授が教科書の分担執筆に手こずって、夏休み中の脱稿なりかねると泣言を言ってきた。
が、それでは当方が堪りかねる瀬戸際だ。京大にも似たようなのが一人いる、よし行ってくると課会で
私が乗り出した時、三輪君の眼は水光る深山の池のように窓の外の雲をひそと浮かべた。
「行くんですね」
「行くよ。仕事さ」と私は眉を寄せ、さっさと次の課長会議へ部屋を出て行った。
執筆者の泣言にもいろいろある。ただ言ってみる、というのもある。S先生は私の顔を見て照れて嬉
しそうな顔をした。昼飯を奢ると言われ大笑いして辞退した。養家が京都と知っていて、早く親の顔が
見たいかとからかわれた。頷いて研究室を出てきた。朝倉へ、ここからは近鉄大阪線が早いと、調べは
汽車の中でつけた時から、京大の方は電話だけで押してよしと割愛の肚だった。
生駒と葛城の間(あい)を尾根越えに奈良盆地へ擦りぬけ、五位堂とかいう駅を小気味よく通過する頃から西
の空にうま酒三輪の山、巻向、泊瀬(はつせ)、龍王の山が薄澄む青い影をかがやく雲の下に浮かべた。すばらし
い、すばらしいと私は隣の席に十一、二の女の子がぽっんと腰かけたのにも構わず、うつけ気味に呟き
つづけた。畝傍と聴けば香久山を探し耳成(みみなし)山を車窓に探す。もう薄の、穂花こそ咲かさないが茎長に伸
びた青さが目に立つ中に、思わず身をのくほど燃えて咲く百日紅の花や夾竹桃の木叢も幾度も私は見た。
三輪山は紛れもなかった。桜井駅に入る直前、ぱたぱた大粒の通り雨が窓硝子を叩き、輝きを失った
雲が古い綿くずのように山辺を飛んだ、が、乗り換えを待っまにも幸いすぐ日は射した。九十度に折れ
て真直ぐ奈良へ向かう国鉄桜井線を見送って、がらあきの草色の電車は水を滑る笹舟のように音もなく
次の朝倉駅に着いた。下りる人もなかった。

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栗林まで七、八分歩いた。草いきれの田中道はまたもかんかんの夕日照りで、野蒜(のびる)は白い花をつけ、
あおぐろ
頭の角張った蛾に似た小虫が躍るように無数に花から花へ跳びはねた。曳田(ひけた)の山は黝(あおぐろ)く膨れたように夥
しい繁樹(しがらき)に埋(う)もれ、遠く三輪の壮麗な峯が濃い日光の散乱に夢のように薄雲んで風もない。頂上に浮か
ぷ綿まんじゅうほどの雲をほぐれ出たちぎれ雲が、朝倉、忍坂(おしざか)の山辺へ糸の端のように伸びていた。
何軒も農家を見てきた。よし簀張りの庇に赤に白抜きの氷水の籏を立て、アイスボックスを出してク
リームやジュースを売る駄菓子の店もあった。夏休み中の子どもたちは三人に一人が上半分はだかだ。
水嵩のある三輪川を越えた時も、川上の、うねって滝になり淀になった真黒な岩陰で、頭の黒い河童た
ちがちいさな水しぶきを上げているのを見た。ひどく静かだった。国道から河原までの数十米には一面
丈高い夏草がかがやき、深々と枝を展げた橋下の樫の根方に、幾つか岩隠れて淡桃色(ときいろ)に半ぱしぼんだ芙
蓉の花も、ひっそりと静かだった。
慈恩寺と書いた古びた門の前をぬけて、曳田は、と人に問うまでもない三輪君に聴いた通りの栗林を
右に見て、石ころ一つない黒土のだらだら坂が急に胸を突く頃から、なるほどそのまま自然に大三輪の
山腹へ架け橋を渡したさまに伸び上がる尾根が見える。と、あれが一一と思う石段の感じも近づくにつ
れ合点がいく。私は、駅に荷物は預けてきた手ぶらの手でえいと足もとの黒土を掴むと、もう、子ども
のように山裾めがけて吶喊(とつかん)した。蝉の声がふとやんだ。
自然の石を三つ並べ四つ並べて一段一段を刻み上げた太古この方のただ石の段が、およそ見上げて五
十に余るほどは崩れがちにまだ姿を残していながら、三輪君が言ったように草木は容赦なくはぴこり、
十登り二十登って、私は流れる汗に眼鏡を濡らし途中で佇んだ。行けぬことはない、が、この分では二

110

度三度も例の三輪の神に遭いかねない。立往生のまま木の間伝いに窺っても、曳田神社の在り処(ど)は深山
の奥に杳(よう)として木隠れ鎮まり返っている。ままよ、一掴みはある枝が葉を繁らせ道塞ぎ顔に垂れたのを、
私はうむと両手で支え、身をのけぞって潜るとまた三段四段登って行った。足もとが崩れ落ち、洞(うろ)にな
って積んだ石の蔭から濃い土肌の匂いが鼻をさすこともある。構わず遮二無二石から石へ踏み登った。
三輪山は見えず、右の奥の瞼しい岨(そわ)越えに巻向と泊瀬がもう淡い夕霧を帯びて濡れたように青い。
石段が切れ、高い崖を背に旧社殿を偲ばせる空地があった。礎石一つないのは掘立ての祠であったの
か、だが山路は右へ、崖の上へと迂回して一層細々と先があった。ためらわなかった。木の根と見えた
背黒の蛇が爪先から揺れ動いて私を山の上へ誘う。静かな夏の日が木洩れに翳ろい、遠く山水(やまみず)の落ちる
音を聴いた。顧みに遥か南の多武峰が、突っ立つ鋭さで空に光っていた。
いつか高い尾根の北裏へ踏み迷っていた。そして一望のもとめざましい光景を眼に見た。
鏡を沈めたように渓の向うの木暗い山ふところに、三つ四つちいさな青い沼がさざ波も立てず、段々
に層をなして一面の萩が真緑にそよぐ山はらには明らかに穴墓と思しい窪みも十、十五と数えられて、
白い鳥が無心に舞い下りて行く。眼を挙げれば遠嶺(とおね)幾重にもしきなめて、天(そら)さす杉の巨木が鳴るように
黝(あおぐろ)く立ち競い、三輪の主筆は隠れなく早や夕暮の薄茜を浮かべて真紫に静まっていた。うま酒三輪の
うしろあし
山や一一と思わず口ずさみながら、まじろぎもせず、あたかも後足を踏むように私は背の方の小高い丘
へ丘へと登って行った。
振向くとその丘の上に、方五、六尺の石蓋に蔽われ、根は青やかに萩むらの茂みに包まれた天然の石
窟(いわあな)が、心なし南に傾(かし)ぎつつ洞(うろ)の深みをうしろの崖の下に沈めている。もう這い寄るほどに私は萩の葉に

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触れ石に触れ、昏闇の奥を覗いて堪らず泣いた。

うま酒三輪の山や
秋芽子(あきはぎ)の揺(あゆ)ける吾(あれ)を
夜ひとり寝よとやかみの
夜ひとり寝よとやきみは

地の底の重い呟きはかすかな唄声と聴こえ、応えるように山が鳴る、と、危く身を退(の)き立ち竦(すくむ)むもう
そのそこに、いつから居たかのようにひっそり萩の傍に機(はた)立て絡■(たたり)を置いて、葛衣(かつらぎ)に高麗錦(こまにしき)の赤い帯を
しらが
垂れた一人の姥が、重げに足を牽き牽き謡っていた。夕暮にまばらな白髪が動き、あ、と叫ぶ声が声に
ならない。姥は眼をあげ、痩せかじけた手を力よわく空に向けた。

三輪山の秀(ほ)の上(へ)に
あけの夕雲の
愛(うつく)しきかも
きみとわかれては

老い嗄(しわが)れた声は息切れず静かに、姥はゆっくり両手を次第に次第に胸もとへかい繰り、あたかも物を

(■:土へん に 朶)

112
 

引く、と、夕澄んだ青白さに一筋二筋のかがやく紅(くれない)の糸が山風にうちなびいて、姥はくるくる絡■(たたり)を廻

す。糸は三輪山にたなびく遥か朱(あけ)の雲から夕陽に映えてくるりくるり姥の手に績(う)み紡がれ、目の前の機
に架かる。はたり、はたり、とんと、立ちながら姥はまた謡い、翳ろう深山木が一際鳴って、一瞬暮れ
なずむ日ざしが機の真上に花やかに落ちた。

をとめごは
績麻(うみそ)の絡■(たたり)
雲居懸け
倦(う)むときなしに
恋ひわたるかも一一

足玉(あしたま)も
手珠(たたま)もゆらに
織る機(はた)を
衣に縫ひて
おれ
きみ待つ吾は一一

だが刻々に時は移り、すると紅(あか)の糸も黄金(きん)に輝き紫に照り、また青く冴え薄墨に澄んで、姥が織る布

(■:土へん に 朶)

113

は寂しい夕闇に見え隠れに消えかかる、姥は、魂消ゆるように声をせく。

解(と)き衣(ぎぬ)の
乱れ恋のみせしめつつ
逢はぬきみゆゑ
吾(あ)は時を織る
吾は、時を織る一一

物のあやめも昏(くら)くなると、やがて力なく肩を落とし、その時姥ははじめて凝っと私の顔を見た。が、
すぐ身をそるように両の掌を空にあげて、残る夕日の一滴を金無垢の雫に受けとめると、すばやく指に
揉んで輝く針に変えた。
姥は己(おの)が髪の銀の色を、引いては引いては金の針に通し、心せく夕闇に織りまぜて機の上の雲居の衣(きぬ)
に手早い繍(ぬい)を懸けて行った。懸け終ると私を手まねき、姥は心もとなく君子を抱くかと思えてその時萩
の葉を揺る山風に、足もとから揺れ揺れもう常闇(とこやみ)の石窟(いわあね)に吸われるように姿を消して行った。織り衣(ぎぬ)は
機をはなれ虚空に浮かび、かすかに光る繍の一(ひと)文字が、ただ真白にたしかに「松」と読める。機も絡■(たたり)
もかき昏れて、「待つ」にも倦(う)むか、ただ鳴る山の音に底寵もる遠い唄の声は、

秋芽子(あきはぎ)の揺(あゆ)ける吾を

(■:土へん に 朶)

114

と、ただよい、

夜ひとり寝よとや かみの
夜ひとり寝よとや きみは

と、途絶えて、もう三輪山は見えなかった。

一完一

115
 

作品の後に

私の初期作品の何件かは、たとえば雑誌「淡交」の記事などにヒントを得ている。今回収めた
「秘色(ひそく)」も、たしかな記憶を頼んでいえぱ、この裏千家茶道雑誌に掲載された「近江大
津京」に関する歴史地理学的な解説記事に刺激されている。崇福寺塔心礎(しんそ)から稀有の国宝舎利容
器が発見された史実は動かぬところで、さきごろの天皇在位六十年記念『日本美術名宝展』にも
色美しく陳列されていたのを、なつかしく眺めてきた。無文銀銭の十一枚も同じ時に発見された
のであり、それが事実十一枚であったか、十二枚の一枚が紛失したものであったかは、発掘発見
当時の関係者を困惑と迷惑とに巻き込んだたいへんな騒動であった事も、小説が語っているとお
りなのである。
もし今、私がその紛失したらしい残る一枚の無文銀銭の行方を承知していると言っても、読者
はまさか信用されないだろう。信用されないことを声を大きくして主張してみても始まらないの
で、ここでは何も言わずにおくが、ともあれ作品「秘色」は私には忘れがたい仕事になった。一
つには、本来のこれが太宰治賞受賞第一作になっている。二つにはその受賞の通知を心待ちにし
ながら、この作品を書きつぐ目的で実際に崇福寺の遺跡までひっそりとまた独り旅してきた記憶
が、今も、じんじんと身内に生きている。

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だが、もっと「文学」的に大切なことが、この作品をめぐって記憶されている。
この作品は、雑誌「展望」に発表の前後に相反する二つの批評に直面した。一つは発表前に個
人的に批評を求めに行った第一級の編集者である新潮社出版部の宮脇修氏により、「支離滅裂」
と評されていたこと。二つは、発表後に同郷の「一読者」杉本秀太郎氏に私信と雑誌読者欄への
投書をうながすほどの喝采を得ていたこと。氏が、今は大学教授のかたわら有数の随筆家であり
批評家であることはよく知られている。しかも宮脇、杉本両氏ともに、これまた宗教学者として
名高い山折哲雄氏と三人ならんで、私の「清経入水」に対し、いっとう早く感応し声援を送って
くれた有難い読者なのであった。
私は、杉本氏の共感の言葉も忘れないが、それ以上に有難く宮脇氏の批評により多くを考えさ
せられた。郷土の先輩としても、彼は、その時にこんな風に教えてくれたと覚えている。「日本
の近代文学は苦労を重ねて散文精神を磨き鍛えてきた。それは、一つの事や物に即応する体の一
つのキチッとした言葉をその場その場で与えつつ、揺ぎない明確なイメージを確保することであ
った。しかるに君の日本語は、一語一語がその場その場で明確にイメージを結ばず、あたかも石
くれのようにバラ撒いて行かれ、ところが、作品の進行につれてそれらがいつかジワジワと遅れ
ぱせにいたるところで光りはじめる。意味を持ちはじめる。そして互いに乱反射しあうようにな
る。すくなくもそれは近代文学の大勢とは相容れない性質の営みであり、はなはだ分りにくい方
法である。いや方法であるのかどうかも分らない、つまり支離滅裂ということになる」と。
私はそれを聞きながら、漠然とした悲哀感とともに奇妙にホメられてでもいるような自覚をも

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ったことを、昨日のことのように覚えている。私は、ラテン語やドイツ語ならば知らず、日本語
が、宮脇氏のいうような物・事の関係や輪郭を明確に正確に描き出せる体の言語であるとはとて
も信じられないでいた。むしろ日本語とは、逆に、物・事の関係や輪郭をぼかし、まぎらかし、
かすめとりながら真意や事情を伝え合う体の言語であると思っていた。私の京ことばに対する理
解、ひいては日本の伝統的な和歌や物語や俳句や、また日常会話における表現効果を思えば思う
ほど、そうであった。私は私の小説が、宮脇氏のいうようなものであり得ていたかどうかさえ判
断できないほど未熟であったが、もし本当にそんな具合であるのなら、それはケッコウなことだ
とすら、とっさに感じた。いわば私の「時間差」手法がやや効果をもったのであり、同時に、そ
ういう考えでこの文壇に生息しつづけるのはたいへんだナ…とも痛感した。
いま、もし日本文学の研究者らが、はたして日本語をもって宮脇氏のかつて私に告げたような
言語、物・事の関係や輪郭をクリアにするための言語であると信じつつ文学「表現」を考察し評
価しているのであるとすれぱ、私は、率直にそれはチガウと声をあげたい。イイ・ワルイの評価
としてではない。日本語の認識が、それでは正しくないというだけのことを私は強く言いたい。
かつて私は宮脇氏に何ひとつの反論もしなかった。出来なかった。だがその時から私は「考え
始めた」とは、いま、言える。そして私は(作家生活上の不安はかかえ持ちつつ)自分の判断に
したがい自分の表現を支持しつづけて来た。こんど「秘色」を読み返しつつあまり考えは変って
いないと思い、それにも首肯けた。それとて、もっと後日、たとえば馬場あき子氏の「秦さん、
『秘色』は名作だと思うわよ」と断言してくれた深切な表情にも大いに助けられてはいるし、ま

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たそれにも甘える気など実は微塵ないのである.
この「秘色」を、こうしてこんど「三輪山」とならぺてみると、文学表現の問題とはまた別趣
の私のモチーフが露わになっているのに気づく。私の生みの母は、湖国近江の東岸に豊かに生ま
れ、数奇の運命にもてあそぱれて大和国に生き、そして窮死した。いまの私はその生涯をほぼそ
らんじる位に承知しているが、実はこの両作を書いた頃にはまだ何一つというほど、そうした事
実も事情も知らなかった。そのことは、ここで作品の後にとくに書き添えておいていい。
作品「秘色」を書いた頃、井上靖氏の『額田姫王』もたしかに書かれていた。それを私は読ん
でいなかったが多少意識していたのも事実で、あの時代と人を、私ならこう書く…といった気負
いがいくらか有った事は否定しない。文壇に挙げられて、まだ右も左も分らないときであったが、
私ひとりの思いには所詮文壇は疎い影のようなものであった。書きたいように書いて、書き続け
られれぱ幸いと思っていた。
「三輪山」は雑誌「太陽」に書いた小説のたぷん二、三作めであったろう。私は、限られた枚
数で「太陽」から特集小説を頼まれるのがその頃ひときわ嬉しかった。文芸誌より読者の数はは
るかに多く、原稿料もよかった。ちからを籠めて書いた。この作品掲載号の特集テーマが「織り
もの」であったことも書き加えておこう。何を、どう書こう…。依頼があった日、妻を誘って夕
方の散歩に出ながら思案にくれていた。そして、美しい夕あかねに綿雲の浮かんだ空を、「ほら」
と妻に指さされた…あの瞬間を私は忘れもしない。
なお両作とも、此度びいくらか字句やルビを補っているが、概ねは初出本文のままである。

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第二刷に添えて

『秘色』という作品は、なんといっても事実上の受賞第一作(その前に「新潮」に『蝶の皿』を
出しているが、この作は太宰治賞をもらうより以前に書いていた。)だったから、思い出はいろ
いろ有る。
堅田の当来寺を訪れて幻花庵に一泊した、その翌朝の宿の朝飯に「半月の盆に、赤絵の丼でむ
し寿司」が出ている。「朝からすこし重苦しかったが、尼さんの自慢で、ゆうべからの用意と聴
けば、木の箸をぴんと割る感触にも、旅先の朝食では経験した事のないものがまじった」などと
書いている。ここのところを、後に、銀座で「こつるぎ」という寿司店の主人が取り上げて、文
学作品に書かれた寿司の表現をあつめた自前の本にいれてくれていた。目配りに感心した。この
小説の堅田のところは、わりに読者の気をそそったらしく、筑摩書房で単行本になった直後には
中日新聞が記者とカメラマンとを派遣し、文芸欄の半面ほどの大きな記事にしてくれた。堅田へ
行って来ましたという読者はその後も多かった。もっとも、幻花庵を見付けるのはラクではなか
ったようである。
題そのものの問題の「物色」の盞を見付けたのは、どこでであったろう。上野の博物館だと思
うが、東洋館で人けもない静かな展示のなかから見付けたのか、なにか特別の展覧会であったか。
なににせよ実物の美しいことは、すこし表現に困るが「ふるいっきたい」ほどであった。見るか

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らに砧青磁の肌あいであり、蓮葉の緑っぽい色は含んでいなかった。色よりも形にもっと心をひ
かれた。どんな盞であったか、機会をみて探しあててくだされば、それも一興かも知れない。あ
れほどの造型であれば、そうそう類品は有るものではない。国宝の舎利容器もみごとな品である。
が、同時に塔心礎から出た、見た目も奇態な古銭も印象に残るものである。さそりではない、蓮
華文の異色の軒瓦もすごい。近江神宮の宝物館か、時には京都の博物館で見られる。最近近江神
宮へ行ってきた若い友人が、大きなお宮だったと感心していた。天智天皇を祭って、戦前の国が
なにかしら威信をかけて建造した輪奐である。ちょっと京都の平安神宮にも印象が重なる。
ところで、今、この小説にかかわって私の思うこと、嘆きたいことは、一つしかない。こうい
う入り組んだ造りの小説は、現在の文芸誌編集者には決定的に好まれぬという事である。歴史や
伝承へ「私」がらみに関わりながら、時間軸や空間軸を深い背後の闇になかば溶け入らせたよう
な不思議な小説は、読みにくい、煩わしいと、だれよりも文学の編集者のほうから、前もって作
者にブレーキを掛けてくる。ところが『みごもりの湖』にせよ『慈子』や『清経入水』にせよ、
また『風の奏で』や『北の時代』にせよ、どんな歴史の事件や人物とかかわるのにも、いわゆる
時代小説風になど、私は書きたくないのである。ま、繰りごとであるが、文芸誌から遠ざかって
いる理由の一つがそれなのは確かである。意地を張るから読者の数が増えないのだとも言われる。
そうであろう。だが、数少なくても私の作風をよろこんで下さる方のあるかぎり、私は私の「方
法」を「作者」としてさらに磨きたい。泉鏡花の固定読者が「五百人」であったという伝説に、
私は力づけられてもいる。むろん無用に気張る気もないが、所詮は騒壇余人として終わりたい。

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